sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

時間旅行楽団

時間旅行楽団は有志によって大学の壁を越え結成され、2005年に山口情報芸術センター(YCAM)でデビューを果たした若手楽団です。音楽表現が多様化している現代においては、絶対的な”アーティスト” ”音楽”という存在・概念が揺らいでいます。私たちは、そのような現代における新たな音楽の可能性を模索しています。
 私たちは、定められた規則に従い演奏者がその場で判断を下し、自らの身体を使って音を生成していく音楽を提案してきました。これらは、従来の”作曲”のように1人の作曲者が譜面や楽器と向き合い音を構成していくのではなく、複数人により様々な作曲のアイデアを出し合い、コラボレーションしていくことで生み出されています。私たちの作品には、数列に単純に音を当てはめていくだけではなく、音を生み出すための行為としての、身体の動きも同時に付随しているという特徴があります。それは、ダンス等のように身体を動かす事自体が目的ではなく、あくまでも音楽のための時間的な流れを生み出す手段の一つであり、機械的な洗練されたシンプルな動きとして存在します。さらに、その演奏には特殊な音楽テクニックを一切必要としません。実際、メンバーには特別な音楽教育を受けていない者も含まれています。しかし、誰でも実践できる単純で機械的な動きだからこそ、そこには人間らしさが露呈します。ネットワークテクノロジーの爆発的な一般への普及などにより、あらゆるものが画一化し、テクノロジーに操られているかのような社会が生み出されつつあります。そのなかで、私たちの試みは人間が「個」を失っていくという現在の状況に対しての問いかけになるとも考えています*1

 このグループには、以前からこのブログを(というか私のネット上にアップしている文章を)読んでくださっている方が参加している。映像は彼らによるパフォーマンス「回転少女」より。音楽のシステムの揺らぎから新しいものに若い人たちが取り組んでいるということは注目に値するように思う。こういうものは率先して取り上げていきたい。
 「回転少女」を観ていて脳裏に浮かんだものに、佐藤雅彦と、足立智美の作品がある。ひとつめのものは、ここで試みられているアルゴリズム性に関して。「アルゴリズム体操」を観たときの印象を誘発させられた。しかし、「回転少女」内でおこなわれているアルゴリズム佐藤雅彦のものよりも複雑である。後者が、順次と反復しか使用していないのに対して、前者は順次・選択・反復という三つの要素を持っている。時間旅行楽団は構造化プログラミングの基本構造を押さえているのである。
 ふたつめのものは、演奏者が発する肉声がベルカントではないという点に関して。これは足立智美ロイヤル合唱団の作品を思い起こさせる。両者の間にある相違点をあげるなら、まずどちらも「ハモっていない」という点に共通項を見出せるし、足立智美がするような言葉の意味を発声することによって解体/構築する試みは時間旅行団においてはおこなわれていない。その代わり、意味を伴わない音声は、不気味なほど肉感的である(肉声!という感じがする)。
 こじつけも甚だしいのだが、以上のような感想を持った。しかし、このパフォーマンスを観察していると、そこでどのようなコードが書かれているのか想像することが出来る点が面白い。どのような過程で作品が生まれているか、それは想像に過ぎないのだが、ここで演奏者に与えられている動作の指示は記譜することが可能なもののように思える――そうすると非常に非西洋的で斬新なように見える試みが、西洋的な作曲概念上で行われているようにも考えられる。
 しかし、このパフォーマンスのアルゴリズムは組み替え可能であることも忘れてはならない重要な点であろう。映像を見ていると、演奏者が肩を叩かれるときになって回転を始める規則を見出せる。もちろん、他にもさまざまな指示がプログラムされているのだが、その指示の連なりによってパフォーマンスは進行し、この映像における「回転少女」は出来上がっている。
 だが、おそらくこの「回転少女」はひとつの形態に過ぎないのではないだろうか――と私は想像してしまう。「回転少女」プログラムは、初めに回転しはじめる人の人数を変えるだけで、全く別の「回転少女」になり得る(しかし、プログラムそのものに変更は加えられていない)。この可能性をもたらすアイデアが痺れるほど素晴らしい――プログラムは作曲者たちによって厳密に規定されている。しかし、その結果はあるときには作曲者たちにすら予測のつかないものとなる。これは「管理された偶然性」という言葉が最も相応しいものであるように思う。
 時間旅行楽団を前にすれば、ケージは天国でその無責任さを反省し、ブーレーズは自分の中途半端さを悔いることになるのではないだろうか。