今日のアドルノ*1
呪術のうちには特定のものとの身代わり可能性がある。
呪術の時代においては「敵の槍や髪や名前の上に何かが起これば、同時にそれは、その敵本人の上にもふりかかってくるはずである」と考えられていた。日本でもそういう類の呪術は存在していた。恨みを抱く相手の髪の毛を藁人形のなかに仕込んで、五寸釘で打つ「丑の刻参り」だとか。藁人形は「特定の誰か」の身代わりである。「人柱」と呼ばれた生贄も同じような呪術だろう。そこで捧げられた「ある人」は「ある村」の身代わりとして災厄を受ける。「ある村」という類例の「代表」として死ぬ。
しかし、科学の時代では違う。「身代わりの可能性」は「普遍的な代替可能性」へと転化する。この変化は言葉の印象として似通ったものかもしれない。でも、全然違う。科学の時代においても「治験」とか「生きた動物の解剖」とか、犠牲にされるものはある。けれども、その犠牲にはいかなる「特別さ」も存在しない。というか、そういう「特別さ」はあってはならないものとして考えられる(特別だったら、実証性はもてなくなる)。「治験」においては、楽してバイト代を稼ごうとする大学生などが「人間の見本」として副作用を受ける。「解剖」でも同じことだ。
呪術の時代に話を戻すと、村の「代表」は誰でも良いわけではなかった。村のために死ぬのは、きっと綺麗で誰の手垢もついていない生娘だったろうし、人の代わりに捧げられる家畜ならその年で一番立派に育った一頭だったろう。それを惜しげもなく河に沈めたり、打ち殺したりする(そんなの『カムイ伝』とか『マッドメン』(諸星大二郎)でしか読んだこと無いけど。)。可愛くない女の子だったり、痩せ細った牛だったりはしない。神聖といえるぐらいに特別でなかったら類型のなかの「代表」にはなれない。
一方、科学の時代では「誰が副作用を受けたか」とか「どの犬が解剖されて死んだか」とか、そんなの全然関係ない(でも、そんなの関係ねぇ!)。どの大学生も、どの犬も「=(イコール)」で結ばれていく。誰が死のうが、そういうのは意味を持たない。科学の時代においては、明日、あなたが車に轢かれて死んだとしても「にんげんっつーのは、このぐらいの速度でぶつかってこられるとしぬんだなぁ(みつを)」という標本として扱われるだけなのだ。
- 作者: ホルクハイマー,アドルノ,Max Horkheimer,Theodor W. Adorno,徳永恂
- 出版社/メーカー: 岩波書店
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