阿部和重『グランド・フィナーレ』
- 作者: 阿部和重
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/07/14
- メディア: 文庫
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この小説が面白く読めたのは、主人公視点で語られる地の文と他の登場人物が語る会話文との文体に大きな差があったからだろう、と思います。会話文はとても生き生きとしていてすごくリアリティがある文章で成り立っているのも(最近の小説を読んでいない)私には新鮮でしたし(村上春樹の会話文にはこういうリアリティはありません)、また地の文のインチキな批評文くさい、はっきり言って過剰な、修飾の用い方も面白かったです。例えば、こういうの。
そのお宝に宿ったマルチメディアの精霊は、悦びや思慕の情を引き出すことよりもさらに熱心に、わたしに対してある残酷な忠告を囁きかけてくるのだった。
「マルチメディアの精霊」――これはナボコフが男性器を「情熱の勺」(『ロリータ』大久保康雄訳)と表現したのを読んだとき以来の個人的ビッグヒットとなったわけですが、その「過剰さ」が主人公の「思い」が並々ならぬものであることの演出として上手く作用しているように思いました(そういえば『ロリータ』も『グランド・フィナーレ』もロリコンを取り扱った小説だ)。それから、その冷静な饒舌さは主人公の自分勝手な「他者観」も裏付けるような気がします。
主人公の他にも、とにかく自分勝手な人たちがいろいろと出てくる小説で、それぞれの「理解のされなさ」の構図も面白いです。例えば第一部のクライマックスとなっている、Iというクラバーの女の子が主人公から自分の性癖とそれにまつわる話を聞きだす、というシーンに関してもそう。その前のシーンで、Iは「悲惨だと思うけれど、自分ではどうしようもないし、大した悩み事でもないこと」の一例のようにアフリカの紛争の話をしていて、その会話が本当に「雑談」っぽくて酷いのだけれど、主人公の告白を聞いて「私は軽蔑した」と面と向かって主人公を非難する。この身勝手な正義感の駆動の仕方は、第二部の主人公にも読み取ることが出来ます。
でもその「身勝手さ」はベタに現れているわけではなく「私にはそういう行為をする権利がないと思われるかもしれないけれども、少なくとも私自身は権利があると思っているし、所詮他人が思っていそうなことなどは『私の想像』なのかもしれないのだから一旦そこに考えをめぐらすのをストップして、行為をおこないます」というような、留保や迂回を行いつつも身勝手な行為に接続されていく、そういう複雑な構造を描いているようにも思われました。そういうのはすごく現代っぽい。