sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

「アドルノ――モダニズムの往還」『現代思想』1987年11月号

 先日髪を切るため前に住んでいたところまで出向いた際に、ふらっと入った「本の価値があんまり分かっていない古本屋」で偶然見つけた雑誌『現代思想』のバックナンバー――特集はアドルノ。もちろん迷わず購入した。たった400円で鼻血が出るほど勉強になる買い物をしてしまい、ここ何日か気分が良かった。雑誌が出てから20年余り経った今、これを読むのはすごく「アドルノが人気のある時代っていうのが、かつてはあったのだなぁ」という羨ましいような気持ちにさせられる、と同時に「今こそ、アドルノを読む時代なのだ」という気持ちを強めた。
 「今なお、哲学を問うことはどういうことなのか」とアドルノが問うたように、ここに文章を寄せている人たちは皆「今なお、アドルノを読むことはどういうことなのか」を問いかけている。そこでは「ポスト・モダン思想の先駆けとしてのアドルノデリダよりも遥かにアクチュアルな問題を抱えた)」、「音楽学者としてのアドルノ」といった様々なアドルノの姿がプリズムのように描かれる。それぞれのアドルノの姿がそれぞれに興味深い。共通するのは、彼の言説がいつも「鈍い破壊力」を持っている、ということだろうか。「神は死んだ」と語るニーチェなどと比べると、やはり“人気”がないのも分かる気がする。
 アドルノが浮かび上がらせる「世界の恐ろしさ」は、だからこそ本当に恐ろしい。彼が与える衝撃は、じわじわとやってくる――多くの執筆者のなかでそれを正確に、魅力的に伝えているのは、三島憲一でろう(『否定弁証法』の翻訳者のひとり)。
 「例えばマルクスは、理想の世界を机の上描くのはイデオロギーでしかなく、哲学はまさに自己自身を今いちど転倒させて、そうしたイデオロギーを額面通り受け取り、世界を変革し、現実とならなければならないと説いた」。理想の世界を現実の世界とするために生まれた国家が、ソヴィエト連邦であったことは言うまでもないだろう。しかし、その試みは「理想の現実化どころか、スターリニズムを招来した」。アウシュヴィッツが生まれたのも、「理想を現実化する」という普通なら褒められるべき行動から発している――アドルノが説いた「理性の自己崩壊と野蛮さの召還」を三島はこんな例を挙げて簡潔に説明する。
 さて、現実(自然)を支配し、理想へと同一化させていくことが、暴力を生み、理想どころか地獄を生み出す「恐ろしさ」が伝わっただろうか。スターリニズムアウシュヴィッツといった遠くにある、大きな地獄にピンと来ないのであれば、連合赤軍リンチ事件やオウム真理教などの例を考えてみて欲しい(それらの凶行も全て理想からはじまっている)。過去にあったことを忘れてしまったなら、『美しい国日本』というスローガンを思い浮かべるだけでも充分だろう。アドルノの言葉は、その「おぞましさ」を浮かび上がらせる力を持っているはずだ。
 まだアウシュヴィッツは終わっていないし、アドルノはまだ死んでいないのだ。