狂気、あるいは原因不明なものへのアレルギー
アメリカで悲惨な銃乱射事件が起きた次の日から、携帯で見れるニュースサイトのトップページにはずっとその事件を起こした犯人の新情報が続々とアップされ続けている。ちょうど『性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶』を読み終えて「アメリカのような合理的な社会は、道具的理性によって原因を突き止められないような“狂気”などに対して、非常に免疫が弱いのではないか」などとぼんやりと考えたところだったため、「事件に関する報道の過熱っぷり」が狂気に対する社会のアレルギー反応のように思えてくる。
「何故、このような狂気じみた事件が起こってしまったのか?」――このような問いを前にして、科学的で合理的な社会は上手く受け答えすることが出来ない。犯人のストーカー気質や富裕層に疎外された(?)生活……といった事件の背景が明るみに出たとしても、狂気によって社会にぽっかり開けられた穴は修復することはできない。というよりも、むしろ、そのような事実は余計に「何故」という疑問を膨らませてしまう可能性さえある。
「何故」から出発した社会は、究明し、改善すべき決定的な原因の帰属をどこに置いていいものか、社会は大いに戸惑う――悪かったのは、犯人の人格なのか、犯人を疎外した富裕層なのか、それとも銃社会なのか……導き出された原因はおよそ全てが原因のようであり、また原因のようでない。結局のところ、「狂気によってなされた事件」と見なされた事件の原因は「狂気によるものである」という同語反復に社会はとどまり(それは証明の不可能性に対する諦めでもある)、残された傷痕が忘却されるのを待つしかない。
このような事態は何もアメリカに限ったものではない。長崎での市長銃撃事件に注がれる報道の熱いまなざしは、アメリカの社会も日本の社会も「狂気という証明不可能な偶発性」に対して同じような反応を持つしかできないことを示しているようにも思う。
18日の取り調べで、取調官が市長の死亡を伝えたところ、城尾容疑者は「ああ、やっぱり死んだんですね」と動揺することもなく淡々と話し、これまで謝罪の言葉や反省した様子はないという。(YOMIURI ONLINEより)
このような報道に触れると、狂気に対する社会のアレルギー反応(をひきおこす報道システムの社会における役割、と言ったほうが正確なのかもしれない)の性格がよりはっきりと感じられる。「ああ、やっぱり死んだんですね」と動揺することもなく淡々と話し、これまで謝罪の言葉や反省した様子はないという――ここでは容疑者(殺人を犯した)の非人間性が強調され、もはや「事件の真相究明」とは離れてしまっている*1。
このような作業は、開けられた穴にとりあえず「狂気」を詰めておくようなものだ。きっと誰かが「このような悲惨な事件が二度と起こらないように……」と神妙な面持ちで、そして死者の冥福を祈りながら言うだろう。でも、きっとそのような悲惨な、よく分からない、狂気じみた事件はこれからも度々起こる(だろう。程度の差はあれど)。そして、その度に社会は開けられた穴をせっせと埋めなおし、そしてまた忘却へと向かうのだろう。
*1:追記;『事件の真相究明』が報道システムの第一目的ではないのだが