あらゆるところに戦争が……
グラモフォン・フィルム・タイプライター〈下〉posted with amazlet on 07.02.14
「なんだかわかんねー……、けど刺激的だし、面白い……(とにかく読ませる力だけは異常にある)」という感じが変わらないまま下巻も読み終えてしまった。ラカンの入門書を一冊読んでみようかなと思ったりもするのだけれど、この本の中で用いられているラカンの用語に関してはしっかりフォローがされているため、読むに当たって特別な支障はなかったように思われる。
アタリのゲームの操縦桿は子供たちを文盲にするだけなのに、そんなことはお構いなしに、レーガン大統領はこのゲームを推奨する。なぜならそれは未来の爆撃パイロットの練習場になるからだ。
無理矢理アドルノを読むようにこの本を読んでしまおうとするなら、このような一発で痺れてしまう言葉が収められた本書は「メディア・テクノロジー」と「戦争」を布置することによって「技術に支配される人間の歴史」を描こうとしたものだったのではないだろうか。その辺の感じはまるでホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法―哲学的断想』と通ずるところがあるかもしれない。ただ、本書の中でアドルノとホルクハイマーの名前が出てくるのは僅かに一箇所だけなので、別にキットラーがそのように意識して書いた、っつーわけではないのだが(ベンヤミンは頻出する)。
グラモフォン、フィルム、タイプライター。キットラーに言わせればあらゆるメディア・テクノロジーが戦争(状況、あるいは戦争で用いられる技術もそこには含まれる)との密接な関連を持って進化を遂げてきた。しかし、あえて強調しておきたいのはそれらの「歴史」がキットラーの手によって構成される虚構であることである。
歴史を記録すること、その機能をも我々は現在テクノロジーの多大な恩恵に負っている。しかし、その記録から(膨大なデータ)を掘り起こして語り出すのは我々の仕事である。そこにつきまとう「虚構性」を、キットラーの天才的な(難解な)テキストがあえて纏うことによって、我々は歴史をそのようにしてしか語ることはできないことも同時に暴き立てているように思う。
私が社会史家的な挙措で行っているのは、虚構を社会現実のなかへと移植して、教養のない大学生たちでも誰にでも、事情が呑み込めるようにすることなのです。しかしまた、それで私はエリートたちを廃棄して、彼らの代わりに社会的なものからなる日常性といったものを導入しようとしているのでもない。むしろ第一に肝腎なのは、<虚構>という概念の心地よさを掻き乱すことなのです。
「こんなものは妄言だ」とキットラーのテキストを笑い飛ばすことは簡単だけれども、その行為はまるで「虚構の心地良さ」にどっぷり浸かっていることを示しているような気がする。キットラーが描く「ぞっとするような歴史」を読んで「ぞっとしてしまう」、そういうリアルな感覚は正しい。
私個人の関心領域の話をすると、本書を読みながらますます「アドルノの愚直さ」のようなものに触れた気がする。アドルノがその音楽評論において達成しようとしたものは、おそらく文章によって(本書に登場するラカンの表現を用いるならば)「リアルなもの」を表現しきってしまうことだった、と私は解釈している。もちろん、言語化不可能な存在をアドルノは「浮動的なもの」と表現しているんだけれど、それはどうやったって文章化した際にサンボリックなもの(これもラカン。物質性を帯び、かつ技術的に処理されうる言語記号)に置き換わってしまうからそれを表現し切ることは不可能なことなんだけれど(それはアドルノ自身にも重々理解できていたはずである)、あえてアドルノという人物は取り組んでいる。私はそこに感じる愚直さ、というかロマン主義に惹かれるわけだけれども。
何枚も複製されるときにはじめて紙と身体が分断されるのではなく、すでに最初からしてその分断が起きてしまう書字。
とキットラーはタイプライターの誕生による「書く行為」と我々の「身体性」(人の声のような固有性)の分割を指摘しているんだけれども、これは活字の印刷物が「固有名を欠いた無名性」のなかに落とし込まれる、というだけではなくそれによってアドルノが尊重しようとした「浮動的なもの」の存在も必然的に切り落としてしまうようにもなんとなく感じられるのだ。
そもそもテクノロジーの発展(ラジオやレコードの普及)によって、批評を通過しなくとも音楽が我々の生活へと送り届けられることが可能になっていることが本書で指摘されてしまうと、20世紀にアドルノが行っていた「書く」という行為の無意味さのようなものが浮かび上がるような気がした。
ちなみにアドルノ自身は手書きにこだわっていた訳ではなく、奥さんに口述筆記をしてもらって原稿を書いていたそうだが(それとは他に膨大な手書きのノートが存在している)。