sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

なめだるま化できない女たち

ブログなどを見ておりますと,女性は普通にセックスネタを書くことが多いと思うのです.でも,男でセックスネタを日常的な感じで書いている人ってほとんどいないと思うのですよね.そうではなく,グラビア・アイドルネタとか,あるいはセックスネタを扱うときは完全に匿名のエロサイトになってしまうとか・・・.

僕は,これは前から不思議に思っていたのですが,新進批評家のmk君*1も自分のセックスネタは書かないじゃない.僕も書かないけれど.でも,私たちの知っているブログ上の女性たちは結構書くでしょう.いったいこのセクシャリティーの非対称性はなんなのか.その非対称はどのように理解すれば良いのか?

 某氏からmixiでこのようなメッセージをいただいた。本当ならばメッセージを返信するだけで終わらせるのが適当なのだろうけれども、せっかくなのでエントリとして書くことで議論を「開かれたもの」にしておこうと思う。以下はシャワーを浴びながらぼんやり考えていたこと。
 ここで《会話》とブログを《書く》ことを比較からはじめてみる。

 我々は日常的におこなっている《会話》は一見「自由」に行われているように思えるが、実はそうではない。そこには「暗黙のルール」が存在する――例えば、誰かと会話するとき、相手が自分の好きなこと、喋りたいことだけを延々と喋り続け、一切聞き手に回らないとしたら、たぶんその人には批難が差し向けられるだろう。その場に4人の人が集まってお喋りをしている、とするなら《何かを発話する権利》が4人のなかをバトンがめぐるようにされなければ会話は成立しないのである。もし4人が同時にその権利を所持して話し出したらその場はとても混沌としてしまい会話は成立しない。

 一方、ブログを《書く》ときそのような煩わしいルールは存在しない―ー何故ならそこにはルールを規定するような他者が存在しないからだ(性格に言えば他者の存在が隠蔽されている)。小説家が書く作品が「誰かに向けて書かれたもの」ではないように、ブロガーの書く文章には明確なメッセージのあて先が存在しない。故に、ブロガーは好きなことを《書く》ことが、会話においてよりも自由に許されているのではないだろうか。

 私がここで会話との比較を行ったのは、実のところ「あんまり普段の会話とブログで書く内容に変わりが無いなぁ」と思ったからである。私は普段からブログに書くような内容を日常的な会話のなかでもしている。「ああ、あの本すごく面白かったよー」とか「あのCDはマジで買うべき」とか。でも、前述のように会話においては制限がかかる。例えば「音楽が好きではない人」に対して音楽の話をしても相手を退屈させてしまうだろうし(そして嫌なヤツだと思われる)、ずっと私が喋り続けるわけにはいかない。しかし、ブログではそのような制限はかからない。故に、ブログにおいては「機会が来たら喋りたいけれども、今この瞬間に書き留めておきたいのだ」ということを書いている。少なくとも私としては、ブログを書く理由の一つにそのようなきっかけがあげられる(もちろん他にも理由はいくつかある)。

 前置きがずいぶん長くなってしまったけれど、ここからやっと本題。では何故「女性はブログにセックスネタを書き、男性は書かないのか」ということについて。もちろんそこにはジェンダーの問題が絡んでくるように思われる。しかし、それだけではなく「個人の性格」的なことも重要な気がする。ここでまた私の場合、の話になるけれども、普段の会話のなかで「セックスネタ」を私はときどき用いている。しかも、結構露骨に。別に自分のセックス武勇伝を開陳するわけでないのだけれど(そもそも、そんな武勇伝は持っていないので)、単純にその会話の場で面白いからする。でも、ブログではそのようにセックスの話をしない。何故かと言うとそこまで差し迫った欲求としてセックスの話をしたいと思わないから、という単純な言い方をすることしかできないからなのだが。別にしようとすればできるしね、という具合に。なめだるま親方*2みたいに生々しいセックスの話を書くことを商売にしてるわけではないし。

 しかし、女性の場合、そこまで「セックスネタ」が会話の中で許されるのだろうか、と私は思う。知り合いの女性のなかには、極めて閉鎖的な「女性グループのなかで」、かなり露骨にセックスの話をする、という人物もいる――そこでは「アイツ、マジでセックスヘタ過ぎてヒいたわ!」とか「チンコ小さすぎて笑った!」とか言われているらしい(おっかないですね)――けれど、その閉鎖的な会話のなかでされるセックスの話と、私がときどきする(強調)セックスの話というのは本質的に異なっているように思われる。「チンコ小さすぎて笑った!」と言う言葉は、たしかに「セックスに関連した言葉」であるが、それは相手の男性に対する批難の言葉であり、その会話のなかには話し手の主体が含まれていない(細かく言うと、会話の中でその小さいチンコを挿入される私の存在にはスポットが当てられていないのだ)。一方で男性のする(というか私のする)セックスの話には、主体が含まれている。むしろ「○○されて気持ちよかった」という主体にスポットが当てられることになる。ここで、そういう会話の仕方を「主体のなめだるま化」と称してみる。

 果たして女性は自身をなめだるま化することができるのだろうか。女性が会話のなかで自分を「なめだるま化」して話すとき、そこには「うわぁ、品がないなぁ」とかいう批難が向けられることになるんじゃないだろうか。言い方を変えると「聞き手」はスムーズに「なめだるま化する話し手(の女性)」を受容しているんだろうか。想像だからなんとも言えないけれど「なめだるま化した自分」の話を聞いてくれる人って、女性にとって見つけるのが難しい問題なのではないだろうか。だから必然的に、「なめだるま化した話し手」がブログ上に書き手として現れている、と私は考える――男性でも「なめだるま化する《私》を受容してくれる聞き手」が見つけられない場合、ブログに書いちゃう気がする。「男のそれを読むか?」というのはまた別問題だけど(この『男のセックス日記を読むか?』っていう非対称性の問題もすごく重要だと思う。私としてむしろそっちのほうに興味がある)。

 想像で話を進めているので実際にどうなのかはよくわからないから、セックスネタも書いておられる女性ブロガーにお聞きしたいところです(すごい失礼かもしれませんが、id:exodus2762さん、どうですか?普段会話のなかで、なめだるま化してますか?就職活動大変かもしれませんが、お暇なときにお答えいただけたらと思います)。