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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

こどものミメーシス

ベートーヴェン―音楽の哲学
テオドール・W. アドルノ Theodor W. Adorno 大久保 健治
作品社
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 『ベートーヴェン――音楽の哲学(Beethoven: Philosophie der Musik)』は1993年に出版された最も新しいアドルノ著作である。もちろん1969年にアドルノは亡くなっているから彼が直接出版を許可したわけではなく、ドイツのアドルノ研究者ロルフ・ティーデマンがアドルノの遺稿や膨大な量のメモを編纂して一冊の本をまとめたもの。『ミニマ・モラリア』的に断章がテーマとの関連などで区切られ並べられているのだが、アドルノが存命中に発表したものより「分かりやすい言葉」が綴られているという印象を受けた。「死後他人による編纂だから厳密にはアドルノの著作とは呼べない」かもしれないが、「非体系の思想」を自称し、自らのスタイルにエッセイを選択したアドルノである。あんまり問題は無い、っていうかティーデマン、良い仕事しすぎて泣ける。

 ここ何日か「アドルノにとってミメーシス【模倣】って具体的にどういう認識の手段だったんだろーなぁ」ってことをもうちょっと考えたくて色々と探り、今まで読んだものを読み返しながら、このベートーヴェン論を読んだ。一つ読んでいて思ったのは、アドルノが考える「最もミメーシスに適した認識主体」とはひょっとしたら子供であったんじゃないか、ということ。この本の第一章である「序曲」には、アドルノベートーヴェンのピアノ・ソナタ第21番《ワルトシュタイン》について、子どもの頃の思い出を折り返しながらこのような断章を残している。

子供の頃の私はこのソナタは、いわばワルトシュタイン(森の石)という名を表す曲と考えていた。その名を聴いた時、私が最初に想像したのは、暗い森に踏み入る騎士のことであった。後年私はこの曲をいつも暗譜で演奏するようになるが、子供の頃の私の方が、真実に近いところにいたのではあるまいか。

 アドルノの子供時代の思い込みは事実とは異なっている。《ワルトシュタイン》というタイトルは「森の石」を意味する一般名詞ではなく、ベートーヴェンが献呈したワルトシュタイン伯爵の固有名だ。言うまでもなくアドルノはそのことを知っている。しかし、暗い森を思い描いていたときの方が「真実に近いところにいたのではないか」という。ここには過去への憧憬があるように思われる(このあたりにアドルノがよく引用するプルーストとの近似性がある)。アドルノがこのように過去を振り返るのは、理性からミメーシスへの不可逆性とも通じている気もする。もう少し噛み砕くなら「今自分はこの曲を暗譜しているし、アナリーゼもできる。冒頭に続くC-durの連打が騎士が森に踏み入る足音を意味するものではないことも知っている。でも、悲しいっすよね。あのときみたいに曲を“体験すること”はできないのだから」みたいな感じ。あー、全然上手く言えてない。

 とにかく、これは読んで良かった。「付録」でついてくるアドルノのラジオ講演録も面白かったし。