隠蔽されるものの提示
トリストラム・シャンディ 中 (2)posted with amazlet on 06.11.11
「やはりとんでもない小説だ」って思う。こういったものが18世紀に書かれていたとなると私が今まで読んできた「小説らしい小説」(起承転結があり……という形の)なんて文学史のなかでは、実に部分的な「そのとき主流だったもの」なんじゃないか、と感じる。近代文学を相対化する意味でも読んで損はない気がするけれど「感動した!」とか「共感する!」とか国語の教科書的な感覚とは無縁なので、人に薦めるのは難しい本だ。
岩波文庫版の中巻では四巻から六巻までが収録されているのだが、四巻の第25章の前に空白のページが続き、「第24章がスッポリが抜けておりました」という説明が入る箇所がある。その後「まぁ、落丁なんですけど、無い方が本は完成したものとなるんですよ。ほんと偶然だけど、良かったねぇ」などと語り手が話すんだけれど、ここはものすごく読み手にとって不可解な気持ちにさせられる箇所だ。本来「完成したものか」と判断するのは読み手であって、書き手(語り手)ではない。つまり、ここではあらかじめ書き手がそのような読み手の権利を剥奪していることになる。ナラティヴのルールを打ち崩す奇妙さがここには存在する。
そのような「掟破り」は他の箇所にもある。例えば、「この話を今していいものなんだろうか?」と語り手は頻繁に自問するのだけれど、普通ならこういった自問は読み手には提示されない。普段の語りでは、受ける側に隠蔽されるからこそ、語りが受け手にとって承認されるものだというのに……。我々が「普通だと思っていること」っていうのが逆に浮かび上がらせる事例として、この本を読むことが可能なのかもしれないな、とか思った。