土地に縛られる人々
実家には2泊してもうすでに自宅のマンションに戻ってきている。写真は、ウチの庭先にあるビニールハウスで田植えの日を待つ稲の苗。田植えにもいろんな方法があるんだろうけれど、ウチでは若い苗を農協から買ってきて、こうして温室のなかで育ててから田植え機で植える。予定では今度の土日に田植えをおこなうらしい。「もう一度、原発が爆発したらおしまいだべ」という終末的な不安を抱えながら、もし収穫までいっても食べても大丈夫な米ができるかどうかわからない状態で、こうしていつもの年と同じように田植えの準備ができるのは、もはや偉いとかスゴいとかではなく「呪縛なんじゃねーか」と思ってしまう。農業をやるって土地と一緒に暮らすことだから、土地から離れるという選択肢は最初からなくて、そこに自分たちの土地があるなら耕すのは当然――私の目には、私の家族や親類たちの無意識にはそんな考えがあるように思われる。
それが「呪縛である」という風に思われるのは、既にその土地を離れてしまった私が勝手に抱いている感想だけれども、例えば原発が300kmほど離れたところでホットになっている土地で生活しているサラリーマンが「俺はもうココに留まるって腹をくくったから」と選択をして決意をする態度と、福島の農家の人がそこに留まって日々の営みを続けるのとは全然違う。選択肢が考えられる人にとっては、危険な場所にどうして留まる理由が不思議に思われるかもしれない。あるいは、危険な場所で生活を続けるのはとても不合理な行動だと思われるかもしれない。「その土地を離れ、別な場所で心機一転頑張ってみたほうがより多くの益が得られるのでは?(食べられるかどうか分からない米をわざわざ作らなくても良いのでは?)」とか提案してみたくなる人もいるかもしれない。
しかし、いかにそうした説得がおこなわれても、不合理な選択が優勢となることのほうが現実的に考えられる。これは田舎の人が不合理な選択を選びがちなほど保守的である、という理由ではなく、そもそも「私の土地」というような愛着や思いに不合理性が含まれているからだ。この不合理性は美的なナショナリズムの姿とも通ずる。「魂のふるさととしての国体に殉ずることを国益とする立場もある。国体に殉ずる精神的な営みから見た場合、計算可能な国民益が低下するような選択であっても、あえて国益だと見なすわけです*1」。たまたま、その土地に生まれてしまったことにより、こうして土地へと縛られていく人もいる。土地が人を縛る力の強さは、土地を離れた私のような人間にさえ「なにかをしなくては」と思う気持ちが湧いた瞬間にも実感する。
写真をもう一枚。これはウチの桃畑。今はちょうど桃の花が咲き誇っているシーズンで、ウチの畑のように摘蕾をしているところ(果実の質を高めるうちに、ツボミのうちから数を制限すること)では満開感にかけるけれど、超ゴージャスに咲き乱れている畑もある。そうした光景に出くわすと「あ、これが桃源郷ってヤツですか!」と膝を叩いて叫びたくなる。だが、これだって今年の夏、商売になるかどうか全くわかっていない。
*1:『挑発する知―愛国とナショナリズムを問う (ちくま文庫 み 18-4)』P.104-105