読売日本交響楽団第501回定期演奏会 @サントリーホール 大ホール
指揮:ゲルト・アルブレヒト
ヴァイオリン:神尾真由子
《シュポーア・プログラム》
シューマン/〈『ファウスト』からの情景〉序曲
シュポーア/歌劇〈ファウスト〉序曲
シュポーア/ヴァイオリン協奏曲第8番 〈劇唱の形式で〉
シュポーア/交響曲第3番
「シューマンはとても有名な作品がたくさんあり、多くの人に愛されている作曲家です。しかし、シュポーアとは誰なのか? 今日のお客様の多くがそんな風に思っているでしょう」――シューマンとシュポーアによる2曲の《ファウスト》にまつわる序曲を演奏した後に、本日の読売日本交響楽団定期演奏会を指揮したゲルト・アルブレヒトはこんなことを話し始めた。日本の聴衆にも自分の言葉が伝わるように、ゆっくりとした英語で。それは彼がシュポーアの特集を組んだ理由についてのスピーチだった。
「時間には様々なものを判断し、後世に伝えられるものを選択するという役割をはたします。しかし、私はこうした《時間による審判》にも誤りがあると思うのです。本当は忘れられるべきではない作曲家たちが忘れられているかもしれない」。「音楽を含めた芸術一般では、◯◯よりも△△のほうが素晴らしい、だとか××が最も優れた作曲家だとか価値の順序を決めたがる。けれども、私はそうしたことをせず、個々の良さを認めたいと思うし、そうした個々の良さを聴衆の皆さまに聴いていたただきたいと考えます。エベレストと富士山を順序づけることはできないように、作曲家同士を比べることなんかできないでしょう?」
こうした彼の言葉は、シュポーアという「忘れられた作曲家」が取り上げられる理由、というよりも取り上げられ「なくてはならない」理由が浮びあがらせる。簡単に言ってしまえば、これは発掘作業なのだし、一種の検証作業である。《時間による審判》は果たして正しかったのか? シュポーアは忘れ去られて良かったのか? アルブレヒトがシュポーアを演奏するとき、それは音楽史に対してこうした疑問を投げかけることになる。それはとても興味深いものだ。そもそも「個々の良さを認めたい」というのが、伝えられるべき音楽を選択するフィルターとして批評や評論の機能と反抗している。こうした「知られざる作曲家」シリーズを私はこれまで「物好きな人たちのもの」と考えてきたけれど、アルブレヒトの言葉を聞いていたら音楽環境に対して積極的で攻撃的な態度のように思い直してしまった。
とはいえ、こうしたことが胸を張って主張するためにはそれなりの演奏内容が必要だろう。しかし、アルブレヒトについて言えばそのような心配は一切必要がなかった。もう本当に素晴らしいドイツ的な演奏で、1曲目に演奏されたシューマンの最初の和音からして「これは……!」という音がホールに広がる。今年度、このオーケストラの定期会員になってずっと演奏会の序盤の出来が悪い、という感想を抱いてきたけれど、今日はもう最初からすごいパフォーマンスを発揮。ここまでポテンシャルを持ったオケだったのか、読売日響は……と驚くことになった。1998年から2007年まで常任指揮者としてこのオケを指導してきたアルブレヒトだが、私はその時代を知らない。けれども、こうした音の鳴らし方ができる指揮者と仕事をして、今のオケの姿があるのかもしれない、という風にも思った。
ゲルブレヒトが鳴らす音は、「ドイツ的」といってもガチガチに硬くて重厚感ばかりが強調されたものではなく、牧歌的というのが適切に思えるほど、柔らかい響きを持つ。これがとても心地が良い。こうした響きはシュポーアの音楽の洒脱なキャラクターとよくマッチしていた――私もこれが初シュポーアだったのだが、1770年生まれのベートーヴェンとほぼ同世代人(1784年生まれ)の人とは思えないほど軽みのある音楽だ。これを重厚に演奏してしまったら、完全に魅力が損なわれてしまうだろう。ただ、こうした軽い魅力がシュポーアが《時の洗礼》に耐え切れなかった理由のようにも思われるのだが。「ドイツ音楽=重厚なもの」という固定観念は、ベートーヴェンに始まり、ブラームスとワーグナーによって二方向に強調された(ブラームスは晦渋さを、ワーグナーは崇高さを)……と乱暴に整理してみると、シュポーアの居場所はどこにもなくなってしまうかもしれない。
ヴァイオリン協奏曲第8番のソリストとして登場した神尾真由子も素晴らしかった。彼女がチャイコフスキー国際コンクールで優勝した際の模様は、たまたまテレビの特集番組で観ていたが、その当時はあまり良い印象を持っておらず、そのイメージは今日演奏を聴くまで若干ひきずられていた。しかし、これもアルブレヒトの最初の一音と同様に、一発で「これは……!」と驚く演奏だった。今日の彼女の演奏は、弱冠25歳にして堂々たる風格や高い気品を感じさせるな表現であるように映った。これにはアルブレヒトのサポートがあったのかもしれない。しかし「情熱」や「炎の」といったいささか陳腐な言葉に踊らされるような表現ではないところだけとっても好感が持てる。音の表情のつけ方もいちいち魅力的だ。現在、彼女はザハール・ブロンに師事しているそうで「これでは世界中のソリストがブロン門下になってしまうな……」と思ってしまったけれども(ブロン門下生のラインナップについてはWikipediaを参照されたし)、今後どういう風に変化していくのかがとても楽しみな演奏家に出会えたのが嬉しい。
総じて満足度が非常に演奏会だった。こうした演奏会にいくと東京の文化の水準の高さを感じる。玉石混合……では、言葉の選び方が悪いが(多様性のほうが適切か?)、今日のシュポーアみたいなものがあると、文化にも深みを感じるようになってくる。日本で西洋音楽が演奏されはじまったのなんて、高々150年ぐらいしか歴史がないわけで、それを考えると今こうして東京でシュポーアが演奏されているという事実はなんだか感慨深いものがありませんか? ベートーヴェンもブルックナーもブラームスもマーラーも(……ドイツの作曲家ばかりになってしまったが)シュポーアもある。これってどんどん「ホンモノ」に近づいていっている、ということなんじゃないか。もちろん、シュポーアみたいなのは時々で良い。でも、こうした「時々の機会」に「へえ〜、シュポーアってどんな作曲家なんだろう?」と軽い興味をもってコンサート会場に足を運べるような、そういう受け手側の受容力がもっと高まれば、もっともっと豊かな文化と呼べるものができあがるんじゃないか、なんて思った。空席が目立った演奏会だったので。