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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

江村哲二/地平線のクオリア

 日本の作曲家、江村哲二の作品を初めて聴いたのは昨年のサントリーサマーフェスティバルでのことで、その日は芥川作曲賞の受賞者による委嘱作品のうち、とくに評価が高かった管弦楽作品が演奏されていた。そこで江村の《プリマヴェーラ(春)》を聴き、ああ、日本人でもまだこんな艶やかで美しい作品を書くことが許されているのだな、という驚きが喜びとともに胸に沸いた。しかし、この驚きは同時に悲しさをもたらすものでもあった――江村哲二はすでに故人だったのである(2007年6月11日、47歳の若さで亡くなっている)。アルバム『地平線のドーリア』は、江村の死後に発表されることとなった管弦楽作品集。これに収録された(残念ながら第三部のみの抜粋であるが)《プリマヴェーラ(春)》を聴きながら、改めて今の現代音楽の状況において美しい音を追求することのできる度胸、そしてそれが許された才能があまりに早く失われてしまったことが残念でならなかった。


 アルバムの表題作となっている《地平線のクオリア》(2005)は、武満徹に捧げられた作品であるらしい。無論このタイトルは武満の《地平線のドーリア》をもじったものであろう。作曲者自身によるプログラム・ノートには以下の言葉がつづられている。

作曲とは聴くということ。それ以外の何ものでもない。このことを教えてくれたのは武満徹の音楽である。自分の内なるところから湧き上がる音の響きにじっと耳を澄ますこと。それが作曲である。しかし、その響きはあたかも地平線の上に在るが如く、それを手にしようと追いかけても決してそれを実体としてつかむことはできない。その響きは、私が私であるという証でもあり、私という体験でしか語ることのできない「クオリア」である。そしてそのクオリアへの果てしない憧れによって作曲家は作品を書き続けているのである。

 追いかけても決してつかむことのできないもの。言葉にできないもの。そうしたものへの憧憬が作曲家の創作意欲を駆動させる(江村が語るこうした態度はまぎれもなくロマンティックな態度である)。《地平線のクオリア》で聴くことのできる、淡く美しいハーモニーは憧憬の対象となる《なにか》のつかめなさを表象しているのだろうか――しかし、そこで協和する音は、不協和音に脅かされることでゆらめきながら消えていく。夢の穏かさ(こうした印象は晩年の武満の作品からも受け取ることができる)は、かき消されてはよみがえり、潮のような運動が曲をドラマティックに進行させていき、弦楽器の柔らかい和音で曲は締めくくられる。この安らいだ終幕の残響をいつか生で聴いてみたい。そのとき、私はすでにこのようにいない作曲家の代わりに観客席にいられることに名誉と幸福を感じるであろう。