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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

朝吹真理子『きことわ』

きことわ
きことわ
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朝吹 真理子
新潮社
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 朝吹真理子1984年生まれ、私と学年が同じ年に生まれている。生まれた土地や環境はまったく違う。けれども、学年が同じである、ということはほとんど似たような時代の風景を見ている……であろう、そしてそういう自分とほとんど同時代人がどういった小説を書いて芥川賞を受賞しているのか、それが気になった。普段誰が芥川賞をとっても特段気にもしないのだが、今回ばかりはそうしたところで意識に止まり、書店で手に取ったら『E2-E4』への言及が目に止まる。それはマニュエル・ゲッチング1984年に発表した、クラブ・ミュージック界隈、ミニマル・ミュージック界隈から今なおリスペクトされている記念碑的アルバムだ。そういえばゲッチングが昨年来日してこのアルバムを“再演”したのを私は観ていたのだった(嘘。観てない。去年の再演してたのはINVENTIONS FOR ELECTRIC GUITARだ!)。

 心地よい言葉のリズム、視覚的に印象の強い言葉の塊的な密度、そして、芥川賞審査員たちがこぞって言及している《時間》の取り扱いは、この音楽をベースに読むと良いのかもしれない。反復と変化。短いリフレインが多層を作り、それぞれの層のなかで変化がおこっていく。こうした音楽的特徴はミニマル・ミュージックにおいて典型的なものであるが『きことわ』がもつ時間の多層構造はそのような音楽とアナロジカルに併置することができよう。しかし、あくまで文字は一つの流れでしか追うことができない。多層構造とはあくまで比喩であって、ともすれば、単に時間軸があちこちに飛び交って読みにくい作品にもなりかねない。それに読みとは読み手の読むスピードによっても左右され、文章のテンポの良さ、スピードの速さなどは読み手の主観によって決定される。文章のスピードは、スピード・ガンでは計測できない。私はこれをサクサクと読んでしまったが、丁寧に、ゆっくりと読む人もいるだろう。そうした場合にイメージされるのは、モートン・フェルドマンの音楽かもしれない。フェルドマンの音楽は、反復のように表層的に見せかけて、聴衆が気づかないあいだにどんどん変化していく、特異的なテクスチュアをもつ。フェルドマンがダンサブルなテンポで音楽を書いていたならば、もっとこの小説に適切な音楽を提供していたかもしれない。

 現実と幻想が混合し、独特な言語空間を形成する作風からは、川上弘美的なものを感じた。が、川上弘美はもっと日常的だし、マニュエル・ゲッチングスティーヴ・ライヒなどに言及することはないだろう――ライヒの名前は直接的には出ていない、が、私はここに同時代の人間として「90年代以降の《サブカルチャーを含めた人文知識》の平均」を作者が把握していることを感じる。メシアンでもなく、シュトックハウゼンでもなく、吉松隆でもなく、マニュエル・ゲッチングであり、スティーヴ・ライヒなのだ。ここに作者の「趣味の良さ」が感じられた。それは「品」にも言い換えられる。作者がなんと言おうと、これは教養や文化が豊かな家庭に育った人にしか書けない小説で、芥川賞を同時受賞した作品とは真逆の性格をもつものだと思う。そうした品の良さが生み出す、イメージの豊かさだとか、読み心地の穏やかさはこの作品の魅力のひとつだろう。


 しかし、そうした品の良さが「死」などというテーマに触れたときに、まるで本気を感じない……という問題は発生するかもしれない。芥川賞の審査員にはプルーストを想起した人もいたらしい。しかし、この作品で取り扱われる死の軽さや偶然性(と言っても言いぐらい軽い)は、プルーストが描いた「私」の祖母の死の劇場性とは比べられないだろう。とはいえ、そんなことを言っても仕方がない。次が読みたくなる作家の登場だと思えたのは嬉しかった。