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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ジェロラモ・カルダーノ『わが人生の書 ルネサンス人間の数奇な生涯 』

 16世紀ルネサンスの医者であり、数学者であり、占星術師であり、哲学者であり……という万能人的人物、ジェロラモ・カルダーノについて当ブログでは、過去に『カルダーノのコスモス』という研究書を紹介していますが*1、この『わが人生の書』はカルダーノが晩年に自らの人生をつづった自叙伝です。とても面白かった! 副題に「ルネサンス人間の数奇な生涯」とあるとおり、この人は相当に波乱万丈な人生を送っていた模様で、息子が死刑にされたり、博打に金を注ぎこんだり、10年ぐらいインポテンツに悩んでいたり、と大変ご苦労なさったみたい。こうした苦労の運命を、占星術師である彼は自分のホロスコープ(生まれた時の星と惑星の位置を記した図)から分析していて「もうちょっと太陽の位置が違っていたら、もう少し立派な人間になれたのになあ」的なことを書いている。運命は事後的に確認されるのみである、というところがなかなか悲しげで良いですね。自分の運命を分析できる、というのもなかなか難儀なものなのです。運命を知り、その運命を嘆かなくてはならないのであれば、知らないほうが良かったんじゃないか、などとも思います。


 この運命は、自叙伝の冒頭に提示される。個人的にこれは重要に思われます。やっぱり暗い星の下に生まれてしまった、という運命をカルダーノは読んでいるから、その後自分の人生を振り返るさえにも、自分はあんまり幸福な人生を送れなかった、とか、名誉とは無縁の人生だった……とか暗い方向に評価していくわけです。良いこともホントはあったに違いないのに、自分自身が読んだ運命によって自分自身の人生の評価のトーンが決まってしまっているように思われたのですね。このあたりがとても面白いと思いました。ただ、カルダーノがすごいのは、幸福じゃない、成功できなかった、名誉とは無縁だった、とあたかも「なんだかものすごい謙虚な態度をとっている人」風に振舞う一方で、自分の著作一覧の詳細や、自分が直した患者の一覧、自分が同時代の著名人の本で言及された一覧などを制作していたりするところです。思わず「自分大好き人間じゃないか!」と突っ込みたくもなるのですが、ものすごく詳細に練り上げられたリストは、フランソワ・ラブレーが『ガルガンチュアとパンタグリュエル』でよく使っている面白リストの技法と重なって読めてくる。自己否定と自己愛がすごいバランスで同居しているところに、この本の奇書らしい魅力があるように思えます。この詳細さは『カルダーノのコスモス』の著者、グラフトン先生も驚いているのだとか。


 単純に読み物としても面白いもので自分の両親や一族のところから遡って紹介しはじめるところには、ローレンス・スターンの『トリストラム・シャンディ』を想起させるものがある。時系列的にはスターン(18世紀)のほうがずっと後なんですが『トリストラム・シャンディ』の語り口が、ルネサンス期の自叙伝の形式をパロディ化したものだったのかな、と思いました。訳者の一人である榎本恵美子が書いた解説によれば、15・16世紀のイタリアではこうした自叙伝(自分を物語る行為)が活発になったそうです。近代文学においては私小説というのがひとつの有力な形式になりますが、カルダーノの自叙伝もそうした文学史に接続できるものなのかもしれません。


 カルダーノは自分の夢に予知能力がある、という風にこの本で主張しているんですが、ここも面白かったですね。彼が見た予知夢は、夢のなかで将来起こることがそのまま表現されているわけではなく、なんとも奇妙な・不可解な夢なんですよ。それを何らかの事件があったあとで「あ! あの不吉な夢はこの事件を予知していたのか!!」と解釈が発生する。それ全然予知してないよ! という感じなのですが、カルダーノの論法によれば「なんとなく不吉な夢をみたもんで、気をつけていたから大事にいたらずに済んだのだよ」という風に前向きにとらえられる。カルダーノはそうした予知夢を、神的なものの人智を超えた意思が寝ているあいだに頭のなかに入ってきた結果だ……みたいに考えているように思えます(流入説?)。神の意思が超越的なものである、ということは言うまでもないでしょうが、夢がそうした超越的なものとの架け橋になっている、と考えるところにフロイト的なものを見出さなくもないです。

 翻訳は訳者違いで私が読んだ現代教養文庫版のほかに、平凡社ライブラリーにも収録されている模様。しかし、どちらも絶賛絶版中!! 岩波文庫あたりに収録されれば良いですねえ。とはいえ現代教養文庫版は中古でも割合お手ごろな値段で購入可(今現在)。