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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

A・J・ジェイコブズ『驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!』

驚異の百科事典男 世界一頭のいい人間になる!
A・J・ジェイコブズ
文藝春秋
売り上げランキング: 205800

 著者はある日、「『ブリタニカ百科事典』を読破してやろう!」と突然思い立つ。本書は、全32巻、4万3千ページ、項目数が4千4百万語を収録したこの超ボリュームの百科事典に挑んだひとりの男の戦いの記録だ。本書に記されたのは、妻や友人や親戚にバカにされながら、彼はおよそ1年かけて読み通した読書メモであり、そして『ブリタニカ』というひとつの権威から面白い知識ばかりを人力抽出した「要約」となっている。さすがに全32巻からの抽出結果だから、本書も邦訳が700ページ近くある。しかし、超面白くてスラスラと読めてしまった。


 本書の面白さは、単なる読書メモにとどまらず、さまざまなドラマも描かれたところにある。まずは父親との葛藤だ。ユダヤアメリカ人の家系に生まれた著者の親族にはインテリが多いのだが(おばさんはポール・ド・マンの同僚だった、という)、著者の父親もその例に漏れず。さまざまな学位を持ち、職業は弁護士で余暇の合間には、せっせと法学の論文を書いている、という立派な人物である。そもそも、著者が『ブリタニカ』を読破しようと思い立ったのは、この父親の存在がある。『ブリタニカ』読破は、父親がかつて失敗したプロジェクトでもあったのだ。それは父親の意思を継承することでもあり、成し遂げられることによって父親を乗り越える試みでもある。


 本書を読んでいるあいだに著者は不妊治療を受けているのだが、これもまたひとつのドラマとして描かれる。当初その試みはなかなか実を結ばないのだが、ある日、念願かなって妻の妊娠が発覚する。ここからがとても面白い。父親とは息子に対して知恵を授ける存在でなくてはならない、と著者は考える。なぜなら自分がこどものときの自分の父親がそうであったからだ。父親はなんでも知っている。それが圧倒的な存在感をかもし出すのだ。著者にとって『ブリタニカ』はそうして父親像に近づくためのレッスンでもある。


 もちろん、抽出された面白知識も最高だ。たとえばこんなのがある。

太平洋北西部に住む先住民のヌートカ族には、死んだ鯨を岸に呼び寄せる儀式をする専門家がいた。

 その名も鯨祈祷師(なんだそれは……!?)。こうした驚くべき知識に触れるたび、著者は狂喜したに違いない。私にはその気持ちがすごくわかる(こんなに共感をもって読めた本は久しぶりだ!)。鯨祈祷師の存在にひとしきり驚いた後に、鯨祈祷師の生活について想像をめぐらしてみる。しかし、当然うまくイメージができない。そこでまた想像力を働かせてみる。すると、よくわからない職業だ、しかし、それはなぜだかとてもいいものかもしれない、なんて思えてくる。そのような想像が物語的な原石になり、頭のなかで輝く瞬間がとても楽しいに違いない。おそらく4千4百万語の項目からは無限の物語がつむげるに違いない。それはまるでボルヘスの世界だ。


 私も負けてはいられない。『神学大全』読破に挑戦しなければ……!