シェーンベルクの声楽作品をモリモリと聴いた
Schoenberg: Pierre Boulez Edition 2posted with amazlet at 09.12.15
ピエール・ブーレーズ85歳&京都賞受賞記念ってことで一挙にブーレーズのCDが格安セットで再発されています。私もそのうちのいくつかを買いましたが、今はシェーンベルクの声楽曲を中心に集めた6枚組のセットを聴いています。未完の歌劇《モーゼとアロン》や(実は聴いたことが無かった)初期の大作《グレの歌》などが目玉なのですが、他にも色々と聴き所があってオススメです。特に初期と晩年の声楽曲を収録したディスク1が個人的には驚きの連続でした。初期の《地には平和》は《室内交響曲》第1番と同様の不思議な和声感が素晴らしい作品ですし、最晩年の《三つの民謡》は憑き物が落ちたような清廉な調性音楽で、とてもシェーンベルクの作品とは思えないほどです。このような“美しい作品”を経由することによって、またシェーンベルクの音楽の聴き方が変わってきてしまいそうなほど衝撃を受けました。あと、優れた対位法の感覚を持つ作曲家だったんだなぁ、と改めて思いましたね。アドルノは「シェーンベルクを理解できない者は、バッハを理解できない」とか言っていましたが、やっぱり一理あるんだなぁ、とか。
これに対して、ディスク2はバリバリの無調/12音音楽時代の声楽曲が収録されています。聴いていて面白いのは、とっても美しい《三つの民謡》の後に書いた《千年を三たび》、《詩篇第130番》、《現代詩篇》ですね。これらがほぼ同時期に書かれていたとはホントに信じがたいことでしょう。シェーンベルクのこういう傾向をアドルノは、後期のベートーヴェンと重ねて考えていたようです。その部分を引用してみます。
ゲーテが老年の特性と認めた「現象から段階的に身を引くこと」は、芸術の概念においては「素材の無差別化」である。後期ベートーヴェンにあっては、意味を失った慣習により作曲の流れが首をすくめながら進められるのだが、これらの慣習はシェーンベルク後期の諸作品における十二音技法と似たような役割を果たしている。(中略)厳格なる音楽は、社会に抵抗し、社会的真理の代表となる。これに対して迎合的な音楽は、社会がその偽りにもかかわらずいまだ所有している音楽への権利を認めるのだが、それは社会が偽なるものとしてであってもたえず再生産され、生きながらえることにより、客観的にそれ固有の真理の要素を提供しているのと同様である。(中略)素材の無差別化はこの両者の要求の間を縫うように一体化させることを可能にする。調性もまた全体構成に従事することとなり、後期シェーンベルクにとってはもはや、何によって作曲するかは決定的なことではなくなっている。作曲方法がすべてとなり材料が何も意味しなくなった人間には、過ぎ去ったもの、また過ぎたものであるがゆえに消費者の束縛された意識に開かれたものをも、自由に使うことができるのだ。(『新音楽の哲学』P.171-173)
ちょっと引用するつもりが長くなってしまいました(そして、ここだけ引用してもあんまり意味がなさそうな感じがしてきました)。まず「アドルノが後期ベートーヴェンをどう考えていたか」について補足したいところですが、それについてはこちらのエントリを参照してください。さらに第2の補足をすると、アドルノは12音技法時代のシェーンベルクをあまり評価していなかった、というのが重要です。「無調の時代はあんなに自由だったのに! 12音技法を初めてからのシェーンベルクは技法に囚われている! 自由になるつもりが逆に疎外されてる!」というのがアドルノの言い分です。改めてみるとザ・批判産業ですね。これらを踏まえると引用した部分は、晩年のシェーンベルクは「素材の無差別化」されたことで、技法の縛りから開放されて、再び自由を手に入れた! 万歳! という風になります。