磯崎憲一郎『終の住処』
好きな作家でもない限り、芥川賞受賞作といった「話題作」にはほとんど食指が動かないのですが、磯崎憲一郎が受賞インタビューであげていた好きな作家が、私の好きな作家とまるかぶりだったことがあって、興味を持って読んでみました(初めて読んだ小説が、北杜夫というところまで一緒)。でも、あんまりハマれませんでした。今回、芥川賞の選評もチェックしてみたのですが、石原慎太郎が言っていたことがとても真っ当なモノに思えます――「選者に未知の戦慄を与えてくれるような作品が現れないものか」。また、村上龍もこんな風に書いていました――「作者の意図や計算が透けて見えて、わたしはいくつかの死語となった言葉を連想しただけだった。ペダンチック、ハイブロウといった今となってはジョークとしか思えない死語である」。もうなんだか村上龍の性格の悪さが滲み出てくるようなコメントですが、これも真っ当に感じられます。
どちらの選者のコメントにも「あー、君の言いたいこと、やりたいこと、わかるよ。わかるよ。でも、もうそれは誰かがやっていることだし、いまさら面白くは読めないねえ」というような感想を持っているところで共通している。僭越ながら、私も同じような感想を抱いてしまいました。作者が言うように、ラテンアメリカの作家の影響が文体からは読み取れる(ただし、ガルシア=マルケスと並べるのは明らかに褒めすぎだ)し、また、説明的な文章が過剰で、物語的な起伏がほとんどない平坦な白昼夢的幻想によって物語が組まれる、という言わば反−物語的物語、とでも言えましょうか。そういう風に作品を把握してしまえること自体に、作品の大きさ(小ささ)がでてきてしまう。また、随所に盛り込まれた幻想的描写にしても、突き抜けたところがなく、そもそもあまり面白くなかったです……。ケツの穴にダイナマイトを突っ込んで爆死するような、そういうダイナミックなものが読みたいんだよ……!