sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ヴィルヘルム・ディルタイ『近代美学史――近代美学の三期と現代美学の課題』

(当ブログはアマゾン・アソシエイトで小銭を稼いでいるブログです)「美学」と言われても何を学問する学問なのであるか、さっぱり分かっていないのであるが、ディルタイの名前はちょいちょいとアドルノ関連の本や、イコノロジー関連の本でも目にしていたので読んでみる。古い訳なので少し読みにくく、そのせいで読み飛ばしてしまった箇所も多かったのだが、基本的には面白く読む。


 ディルタイはこの本のなかで、近代美学史におけるライプニッツの重要性について説いている。「節度と秩序とに適った運動には夫々秩序のもつ快さがある」とライプニッツは言う。簡単に言ってしまうと、自然の秩序に適うもの → 良いもの、という原理である。この原理のもとに唯理主義美学、というものが打ち立てられた。これは自然の秩序がどのように形成されるのか、を解明することによって、良いものとは何か、を解明する美学であったらしい。十八世紀のレオンハルト・オイラーという人は『音楽の新理論に就いて』という著作において、以下のように記述をおこなっている。

二つ乃至それ以上の音は、その同時に現れる振動の包蔵する数の比例の把握された時に意に適ふ。之に反して若し何等の秩序も感ぜられないか、或は当然耳に入る筈の秩序が突然中断される時、そこに音に対する不快が生ずる。

 以上のような秩序に対しての説明付けは、音楽というジャンルに限った話ではなく、絵画でも、彫刻でも行われたそうである。個人的には、このように説明付けをしようという動機に対して興味を抱いてしまう。十八世紀といえば、百科全書派の活動も同時期の出来事だが、以上の事柄からはなにか「人間の知によって、世界をすべて説明してみせるぞ(それは可能だ!)」という理性に対しての絶対的な信頼、というか誇大妄想染みた感覚を感じ取ってしまうからだ。


 また、これを読みながら二〇世紀になって現れた「調和を目指さず、不調和を目指す芸術運動」のインパクトについても考えさせられた。音楽に限って言えば、もはや我々の耳は、協和音も不協和音も同等に聴くことのできる、相対化された状態にある。シェーンベルクも、バッハも、同じ音楽として聴かれる耳、それが二一世紀の耳である、ということができるだろう。このような状況のなかでは、それまでバッハしか聴いていなかった人が、突然シェーンベルクに出会った、としてもそのとき感じるインパクトの大きさは、必然的に二〇世紀初頭にシェーンベルクの音楽に出会った者のものとは違ったものであろう。当たり前の話だが。


 知識として「この音楽は、それまでの秩序を破壊した」と学ぶことはできるが、破壊された瞬間のインパクトとは後々の人は知ることはできないだろう。ただ、破壊される以前の秩序について学ぶことによって、多少は破壊された瞬間の人々に近づくことができるかもしれない。そのような想像的追体験をおこなうために美学史について知ることも、無駄なことではないのかな、と思ったりもした。