ヴィクトル・ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』
会社で資格をたくさん取ると図書カードをくれる制度ができ、それでもらった図書カードで購入した本。本来なら「またこれで別な資格の問題集でも買え、な?」ということなのであろうが、会社の意向とは正反対に、また、どうしようもない小説を読んでしまった! という感慨でいっぱいの読後感。「ロシアの村上春樹」、「ターボ・リアリズム*1の旗手」と評されるペレーヴィンの最高傑作という噂なのだが、ここまでどうしようもない小説だと、別な作品に手を出そうかどうか正直迷わなくもない。死ぬほど笑える部分もあるのだが、空虚な幻想と妄想が、空虚な現代ロシアとリンクする……と言われても、なんだか……。
二〇世紀初頭、革命派と反革命派がロシア国内で戦うという混沌とした状況の最中、革命派に追われる詩人ピョートルが、ひょんなことから革命闘士に成りすます羽目に陥り……という冒頭は、本格的サスペンス風なのだが、唐突にアーノルド・シュワルツェネッガーが登場し、ハリアーを乗り回したり、アンドロイドだったり、妊娠したり(シュワルツェネッガー主演映画のイメージがコラージュされる)という辺りから、混沌とし始める。また、ロシアに進出してきたサムライの日本人商社マン(タイラ商事に勤務。ライバル会社はもちろんミナモト商事だ)との妄想上の交流は最高にバカで良い。だが、いかんせんメインとなっている二〇世紀初頭の国内戦のなかで、ピョートルとチャパーエフ(革命派の指導者のひとり)と行う、存在をめぐる禅問答が退屈だ。いわば、サルトルなどの実存小説のパスティーシュのようなのだが、ピンチョンやエリクソンに親しみがあったりすると特に目新しくもない。
しかも、すべて精神病院に収容されている青年の妄想である、というひどいオチ。サイケデリックに展開される妄想の数々は、そのひとりの青年の妄想であるがゆえに、分裂的に見える妄想もどこかで繋がりを持って進んでいく。だからエリクソンのように劇的な伏線の回収もありえない。この点に大きな不満を抱かざるを得ない。要は物語的な強度に欠けている、という話である。そういった力強い物語を目指していないのかもしれないが、そうであるとしたら、私はそのような小説をわざわざ選ぶことはないだろう。
また、主人公の前に登場する超越的な存在者であったり、何かありそうで実は何もない、といった点など確かに村上春樹を思わせる形象が、小説のなかに現れるのだが、その点だけでペレーヴィンを「ロシアの村上春樹」と呼ぶことは不当のようにも思われる(ロシアにおけるペレーヴィン作品の売れ行きは、日本における村上春樹のそれに匹敵するそうだが)。