蓮實重彦『表層批評宣言』
大江健三郎と丸谷才一を激怒させた*1という蓮實重彦の『表層批評宣言』を、「最近読んだ本のなかでも最も難しい本であるなぁ……」と思いながら読む。ワンセンテンスの異常な長さ(ワンセンテンスが一ページというのがザラにある)は、衒学的、というよりも迷宮的で、読んでいるうちに「あれ、この文章、もともと何の説明だったっけ?」と迷子になるから困った。収録された五編の文章のうち「なんとなく意味が分かったような気になるもの」がひとつぐらいしかない。
その「ひとつ」が最初に収録されている「言葉の夢と『批評』」であった。「宣言」というぐらいなのだから、ひとつぐらいは「『表層批評』とは、こういうものである」と教えてくれる文章があっても良いのだが、望まれるべき説明的文章はほとんどないのだから驚くしかない。唯一それっぽいのがこの文章である。ここでは「批評の問題」という問題、というメタ的な視点を経由しながら、批評の問題に取り組もうとする姿勢が見て取れる。
「批評とは何か?」などという根源的な問いは、捏造された疑問符である、と筆者は言う。そしてそれは貧しい態度である、と。そのような根源的な問いを行う者は、その行為が「制度」としての批評の延命を促すことに無自覚で、それどころか「問う」ことが善意であるかのように振舞う。多くの場合、「問う」批評家は、まるで作品の深層に、読み取られるべき意味や真理があるかのようにも振舞う。批評が書かれることによって「隠された真理」が見出されるとき、批評は作品を固定化する。言葉が書かれることによって、書かれた対象となる言葉が奪われる。ここで批判にあがっている制度的な批評が行う「解釈」にはそのような暴力性がある(しかし、その暴力は無自覚に行使されてしまう)。
筆者が望む批評とはそのようなものではない。では、どのようなものが望まれるのであろうか。それは以下の一文に集約されているだろう――「『批評』とは、『作品』が存在してしまうことへの不断の驚きであり、嫉妬であり、眩暈である」。これをアドルノ的な言葉に置換して考えることは容易であろう。筆者がここで言う批評とは、作品との出会いの瞬間に、鑑賞者の胸に訪れる驚愕を、文章へと落とし込む行為に他ならない。もちろん、これは夢想に過ぎないものである。驚愕が言葉に置換されたとき、すでにその驚愕は固定化されてしまうのだから。タイトルの「言葉の夢」とは、そのような不可能性への夢想なのだろう。
あと、この文章のなかでは小林秀雄の批評を「ペダンティックなメロドラマ」とこき下ろしているところがあって面白かった。蓮實重彦の著作では最近『反=日本語論』が重版されたが、こちらも近々重版されるのではないかしら。
著者近影がダンディ! この風貌で東大の先生で、奥さんがガイジンってめちゃくちゃ勝ち組じゃんか!
*1:筆者による「あとがき」より。直接的に名前があげられているわけではないが、読めばすぐにこの二人であることを察せられる