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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

コンポージアム2009「ヘルムート・ラッヘンマンを迎えて」

コンポージアム2009「ヘルムート・ラッヘンマンを迎えて」
 久しぶりに現代音楽の話題を。東京オペラシティ文化財団主催の武満徹作曲賞が今年も開催されるそう。今年の審査員はドイツの巨匠、ヘルムート・ラッヘンマン。昨年のスティーヴ・ライヒのときも記念演奏会的な催しがあったけれども、今年もあるようだ。こういった大きなコンサート・ホールで作品に触れる機会はなかなかないと思われるので、現代音楽に少しでも興味がある方は絶対に行くべきである、と思います。私も出来る限り演奏会に足を運びたい、と思っている。演奏会があるのは26日(室内楽プログラム*1)と28日(協奏曲プログラム)。中日の27日はフランスからMAGMAが来日し、こちらは既にチケットを抑えている。フルで行ってしまえば3日連続コンサートになってしまうが、どうしても観たい。


 ラッヘンマンの音楽については、何度かこのブログに文章を書いているが、どれもいまいちまとまりにかけ、その魅力を充分に紹介してきれていない、と読み返して思う。現在N響アワーの司会を務めている西村朗によれば「彼の音楽は、既存の音楽に対しての《異化》である」とのことであるが、ここではもう少し素直な聴き方をオススメしてみたい。特殊奏法を多用する彼の音楽はたしかに、既存の音楽に対して、というか、既存の「音の響き」(この楽器はこういった音色を持つ楽器である)というようなイメージを書き換えてしまう。たしかにそれは一定の破壊力を持った音楽だ。しかし、あえて私はそのように構えた聴き方を拒否してみたい。そのような批評的な意味づけは、ラッヘンマンの音楽が持つ豊かさを限定してしまうのではないだろうか、と思うからだ。


 ラッヘンマンの師でもあったルイジ・ノーノの音楽に対して、ラッヘンマンの音楽はもっとユーモラスな面で優れている、と私は思う。そこには楽譜に書かれたもの以上の想像力を書きたてる力がある。正確に言えば、ラッヘンマンが楽譜に書いた音とは、書かれていたとしても、実際の演奏に触れない限りは把握することができないものだ。おそらく、そこには細やかな奏法上の指示があろう。しかし、それらは音にならない限り、理解することはできない。だからこそ、聴く価値がある。書かれた楽譜は、目で追うことができる。しかし、ラッヘンマンの音楽は本当に耳で聴かない限りは、追うことができないのだ。

Helmut Lachenmann: Grido; Reigen seliger Geister; Gran Torso

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《グラン・トルソ》

*1:確認したところ、現在当日券のみの取り扱いらしい