萩尾望都『トーマの心臓』
初めて萩尾望都の作品を読む。「これは……なんか『若きヴェルテルの悩み』と通ずるものがあるな……」と冒頭からクラクラするぐらいの展開に慄きながら一気に。
この作品のなかで取り扱われている愛をロマンティック・ラヴの一種の典型と見てもいいのだろう。そのような愛の形式は、日常的に執り行われる「恋愛」とはまるで異質なものだ。たとえば、愛するという理由において、そこでは「一緒にいると居心地が良いから」というカジュアルな理由は採用されない。ロマンティック・ラヴはより重く「彼ならば救済を与えてくれる」というような理由で彼を愛する。そこでは、私と彼が肉体的にではなく、精神的に和合するような状況さえ望まれる。
おそらくそのような愛の描かれは、この作品にだけではなく「漫画」というジャンルにおいて半ば一般的に認められるものなのかもしれない。少女漫画に限った話ではなく、少年漫画にも。ただ、少年漫画においては(ここで念頭においているのは『BOYS BE…』であったり、桂正和の作品である)肉体と精神の順番が逆で、まず肉体に欲情したものが、次第に精神的なものへと行き着く、というプロセスを取っているのではないか。
もっとも、個人的に興味があるのはそこではなく、もっと別なところにある。この『トーマの心臓』という作品が、時を経た今でも尚、十代の少女に読まれているのだとしたら、この作品を読んだ彼女たちはどのようにこれを受け取るのだろうか、という反応――この点に興味がある。今私は、この作品中の愛と、日常的な恋愛とはまるで別なものである、ということを知っている(性格に言えば、私個人は別物である、と思っている)。ただし、彼女たちが知っているかどうかはわからない。仮にそういったことを知らない彼女が、これを読んだ場合、どのように感じるのか。このあたりを2時間ぐらいテープを回して聞いてみたくなる。
ここまでほとんど話の筋に触れていないのだが、ちょっと漫画という域を超えた話である、とも思った。一旦、救済の手を差し伸べられながらも、(事情があって)それを拒絶した主人公ユーリのもとへと再度救済の手が差し伸べられる。このとき、彼は一度目の拒絶への罪の意識、あるいはそれ以前の罪へとようやく向き合うことができる。ここでは二度目に差し伸べられた救済の手を前にしたユーリの選択がとても興味深い――彼はその手を受け取らず、絶対的な救済の象徴であろう神のもとへと走るのである。この選択は複雑なものであろう。差し伸べられた手を受け取れ、私は救われるのだろう、しかし、その手を受け取る価値が(罪深い)私にあるのか、このような葛藤がユーリの胸中にある。「愛される妥当性が自らに存在するのか」。このような問いは、アイデンティティの問題とも結びつくものであろう*1。