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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第10回講義メモ)

否定弁証法講義
否定弁証法講義
posted with amazlet on 08.01.03
アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
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 引き続き、第10回講義。本書における講義録の部分はここまでである(残る第11回から第25回までの講義については、講義の内容を録音したテープが存在しておらず、アドルノが講義の際に参照していたメモ書きを収録している)。ちょうど良い区切りがついたので、少しここまでの流れを振り返っておこう。以下に、各講義について私が書いたメモへのリンクを列記してみる。
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080103/p2
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080103/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080106/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080107/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080108/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080112/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080115/p1
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080127/p3
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20080203/p2
 読み直してみると「いったいどこまでがアドルノのいったことで、どこまでが注釈/解釈的な部分なのか」といった部分がまったく明らかにならず、おそらく大学の先生的な視点からすれば「読むに値しない/ルールが守られていない」ということになる文章である、と思う(レポートなら『まぁ、ルール守れてないけど、たくさん書いてるからCぐらいあげとくか』ぐらいの評価か?)。散漫で、密度が高い文章でもない(これは私生活の事情もあり仕方がない部分もあるけれど)。私が読んだ痕跡以上の意味をもっていないけれど、これがもし誰かがアドルノを読みはじめる足がかり的役割を果たしていたとするならば光栄である。
 本書とこの自分のメモ書きを読み直して気がついたことは、執拗と言えるまでの「繰り返し」である。アドルノは本書で、いくつかのテーマを何度も語り口を変えて学生に提示している。一見、それらは「違った話」のように読めるのだが、突き詰めていくと毎回同じことしか言っていない。ここでひとつ、そのテーマの例をあげるならば「究極/絶対/最終的な断定の放棄」というものがあろう(これはもちろん真理的なものの探求を諦める性格のものではない)。アドルノはこの「最終的な断定」をしようとするもの(探求によっていつか究極の真理を捉えることができるだろう、という素朴な哲学)にハイデガーの名をあげ、批判をおこなっている。
 その一方でアドルノパーソンズに代表されるアメリカの機能主義的/実証主義的な社会学者に対しても批判をおこなっている。彼の批判の内容をものすごく噛み砕いて説明すると「アイツらはそもそも最初から社会の読み方を設定して分析をはじめている。だから、分析に間違えようがない(その読み方しかしないから)。そんなものは対象を自分の側に強引に同一化してるだけじゃねーか」ということになる。この批判についても「最終的な断定の放棄」が源泉となっているように読める。「(AGIL図式からすれば)○○とは○○である」、「(存在論からすれば)○○とは○○である」。このような断定はどれもそうでないかもしれないものを、そうであると言い切ってしまう暴力的な記述になってしまう。ゆえに断念せざるを得ない。
 また、最終的な断定の放棄をおこなった後に、我々がとるべき態度としてアドルノが提言するものとして本書では以下のキーワードがあげられると思う。「契機としての思弁」、「哲学の遊戯性」、「無限なものという概念の反省」、「非体系」、そして「否定的弁証法」。これらもまた同じ事柄から派生した言葉だろう。これらの源泉となったものを、再びものすごく噛み砕いて説明するならば「単純な断定を回避し、常に自己反省を維持しつつ、断定をおこなうこと。そしてその断定が常に覆される可能性があるものとして思考にとどめておくこと」ということになる。アドルノは「終わりのない問い直し。問い続け」を推奨している、とも言えるだろうか。
 いわば、本書におけるアドルノの講義とは、単一の主題に基づく変奏形式の講義なのだ、とでも言うならば収まりがいいかもしれない。しかし、これに対して「なんでたったそれだけのことを言うのに、長々とこんなにもお話をして、そしてそれを何度も繰り返さなきゃいけないの?」ということもできる。これは誰かの代弁ではなく、正直に言って、私もそんな風に感じるところである。もうひとつ言っておくと「この程度の話なら何もアドルノでなくてもいいではないか」というのもあるだろう。プレ脱構築的な読み方をしてしまうならば、何もアドルノまで遡る必要はない。「アドルノいらなくね?デリダでいいじゃないか(あるいは東浩紀でいいじゃないか)」――とは至極真っ当な意見である。
 個人的な思い出話になってしまうが、約1年ほど前に私はアドルノで大学の卒業論文を書いた。その執筆途中、指導教官からの「アドルノは、卒業論文に耐えられるような内容を持っているのか」というコメントをもらったことがある。その当初は「たぶん先生は、アドル脳(俺造語)を持っていないからピンとこないにちがいない。アドルノは過小評価されてるんだなぁ……」と思っていたけれども、最近になって「先生の評価もかなり真っ当なものだったのではないか」と思い直している。よく考えればよく考えるほど、アドルノである必要性、アドルノを読まなくてはならない必然性などというものは希薄なものに感じてくる。
 例えば、これがもっと確固たる「方法」を持った人、前述したパーソンズなり、ルーマンなりならば話はもっと容易である。ルーマンを読むならば、ルーマン“を”考えることはもちろん、ルーマン“で”考えることができる。しかし、アドルノの場合、「“で”考えること」や「“を”考えること」は難しい。可能性としては「アドルノ的に考える」ぐらいしか残されていないのかもしれない。
 長々と書き連ねてしまったが、さらに第10回講義メモに続く……(第11回以降はアドルノのメモからなにか掬い取れるものがあった場合に書こうかな、と思っている)。
 「最後のもの、絶対的に確かなものと主張されているその当のもの自体が決して究極のものではなく、媒介されていて、したがって絶対に確かでないことがあきらかになるところでは、確かな地盤と称されている幻影から立ち去る必要がある」(P.168-169)。いま・ここに立っている世界/社会という地盤を確定的なものと考えないところから、真理要求をはじめなくてはならない。地盤は常に覆されうる。一般的な社会においては、主体が立っている地点は確かなものとみなされる傾向にあり、そしてそこで主体が得る経験や感覚といったものは直接的に主体へと与えられたものと思われている。しかし、それは既に何らかのものによって媒介されたものであり、そのような直接性とは仮象に過ぎない。
 しかし、そのように仮象を本質と取り違えて認識する傾向は必然的なものといわざるを得ない。むしろ、それは社会の本質に属しているのである。「したがって、こう言うことができるでしょう。社会的に必然的な仮象としての人間の直接的な意識は、かなりの程度イデオロギーである」(P.170。ここでのイデオロギーは『こうあるべきだ』という意思を含んだものとしてだけでなく、『こうである』という確定を求める意思も含んでいるように思う)。
 思弁的な契機はこのようなイデオロギーに対する批判的な契機として設けられる。「私が思弁ということで理解しているもの、遠慮深く自分を固定するのではない反イデオロギー的な態度は、事実確認的な学問の習慣と際立った対照関係にあります」(P.171)。ファサードに満足しない契機。「哲学とは抵抗の力なのです」(P.172)。
 しかし、「実際、抵抗というのは衝動に属するカテゴリー、直接的な振舞いに属するカテゴリー」(P.173)である。もちろん、ここで哲学を「抵抗の力」としたとき、アドルノが衝動的に批判をおこなうことなどをを推奨していたわけではない。むしろ、衝動とは逆の思慮/自己反省をもって抵抗がおこなわれなくてはいけない、ということが推奨されている。「それはたんに反省されるのみならず、理論的な連関において展開されねばならない」(同)。でなければ、その抵抗としての哲学は単なる偶然的な反応にすぎない、空虚さをおびることになる。
 さらにアドルノは哲学に「深さ」を要求している。それについて「哲学の深さとは何か」という検討もおこなわれている。「深さについて語っていたり、深く響く言葉を魔術的に呼び出しているからといって、それがその哲学の深さを保証するのではありません」(P.177。ここで槍玉にあがるのもやはりハイデガーである。こんだけ言ってたらそりゃアレントと仲悪くなるよ……)。「意味が肯定的なものとして設定されている哲学は深く、そのような意味を否定する哲学は生のたんなるファサードに満足して解釈を放棄している、と語られるなら、そのような言い方自体が表層的です」(P.179)。「したがって私は、こんにち深さの尺度となるのは抵抗、しかもメーメーという嘆きに対する抵抗である、と思います」(P.181)。