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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

東京都交響楽団定期演奏会第656回@東京文化会館

武満徹:《弦楽のためのレクイエム》
武満徹:《アステリズム――ピアノとオーケストラのための》
武満徹:《系図――若い人たちのための音楽詩》
ルチアーノ・ベリオ:《シンフォニア――8つの声とオーケストラのための》

 素晴らしい演奏会。このプログラムを組んだ人は、天才的な構成力と想像力をもっているにちがいない。<日本管弦楽の名曲とその源流>のテーマで、武満×ベリオという組み合わせはややねらいが外れていたかもしれないが、前半で武満徹の軌跡を辿りつつ、《系図》と《シンフォニア》という二つの「声のための」作品で繋げられた。もっとテーマに寄り添うなら、ベリオよりもメシアンのほうが相応しかっただろう(《アステリズム》には、はっきりとメシアンの足跡のようなものを聴くことができることだし)。
 集中的に武満の音楽を聴いていて改めて気がついたのは、彼の音楽における「協和」というキーワードだった。「ストラヴィンスキーに認められた……」という逸話が有名な《弦楽のためのレクイエム》は、調性感が希薄だけれど、キツい不協和音は登場しない。後期の《系図》は、かなり調性的に書かれており、かなり歌謡性も高い(しかし、論理性を欠いた詩的な作品である。これは谷川俊太郎によるテキストと上手くリンクしている)。これは「ゲンダイオンガク」として、かなり特殊な傾向にあるといえるだろう。
 3曲中では《アステリズム》がもっとも「ゲンダイオンガク」らしい作品で、音の動きが激しいものだった。ここでは明らかに西洋的な「前衛」が志向されているように思える。鋭く鍵盤を連打するピアノ独奏、大規模な打楽器群、そしてオーケストラ全体が絡み合うトーン・クラスター。このような特徴は、メシアンクセナキスの音楽にも認めることができよう。しかし、彼らの音楽が「不協和」によって「大きな効果/強い印象」を作ろうとするのと違って、武満はあえて「効果/印象」を殺すことによって「協和」を目指しているのではないだろうか。
 この作品ではグランド・ピアノの「ふた」が取り外されるように指示が行われているのだが、これなども「協和」を強く示唆する点である――この指示によって、ピアノは反響板の役目をするものを失う。当然、その分、音量の効果は下がる。いくらピアニストが鍵盤を強打しても、その音はオーケストラのなかに溶け込んでしまう。音楽が最大に高まる部分では楽器の判別が難しくなるほど音像は不透明になり、抽象的な塊を描くように響く。《アステリズム》というタイトルは「星座」を意味する言葉だという。ここでも音と言葉がうまく協和している。
 ベリオの《シンフォニア》。前半の武満が私の仮定のように「協和」を目指したものだとすれば、後半は逆に「不協和」の極北といったところだろう(そして8人のソリストたち、ブラボー、でした。特に一番高い声の男性パートの方はブラヴィッシモ!)。レヴィ=ストロースやサミュエル・ベケットのテキストが断片化され、その断片が同時に読まれることによって、言葉は単なる音声の羅列になる(あまりに多層的になりすぎて、テキストを読むことができない)。第3楽章では、有名な過去の作曲家のテキスト(作品)が同じように断片化され、多層的にコラージュされる。今回の演奏では、特にそのフレーズが「ホンモノらしく」、そのフレーズが抜き出される前の文脈のとおりに演奏されることでさらに音楽のゲテモノ感/怪物感が高まっていた(個人的な印象だけれども、私はこの曲を聴くとカフカの短編に登場する『オドラデク』について考えてしまう)。

Berio: Sinfonia; Eindru
Berio: Sinfonia; Eindru"cke
posted with amazlet on 08.01.19
Luciano Berio Pierre Boulez Ward Swingle Swingle Singers Orchestre National de France Regis Pasquier
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