テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第6回講義メモ)
気が付くと講義メモシリーズも第6回。講義録として残された部分では、折り返し地点まで来てしまった。第6回の題目は「存在と無の概念」。理論と実践にまつわる諸問題からすこし距離をおき、もう少し大きな考察がおこなわれる議論について語り始めている。しかし「哲学は今なお可能か」という問題からはまったく離れていない(というか、これまでの講義とかなり内容がかぶる部分がある)。ちなみに今回の部分でサルトルはまったく関係ない。以下、いつものように講義メモ。
哲学はなお可能かについて。これは「弁証法はなお可能か」と同じ問いとしてみなされる。反弁証法的な哲学は、もはや批判的な自己省察に持ちこたえることができないのである。
弁証法とは「哲学と異質なもの」、「哲学にとっての他者」、あるいは「非概念的なものを哲学のなかに取り込もうとする試み」である(これはテーゼ-アンチテーゼ-ジンテーゼという図式的な弁証法とはまったく趣を異とする)。ヘーゲルにおいてのそれは非同一的なものの同一化としておこなわれる。しかし、否定弁証法がヘーゲルと異なるのはまさにこの部分である。アドルノにおいては「非概念的なものを取り込むというよりもむしろ、非概念的なものを非概念的なあり方で把握すること」(P.100)として問題設定が行われている。
真剣に自分のことをじっくり反省することが可能な状態にある間に、人を不安にさせるような叫び(「オオカミが来た、オオカミが来た」)をあげることはイデオロギーに他ならない。しかし、このような平穏は長期的には期待できない。このような可能性のなかで、我々には「問いかける」ことについて一種の義務のようなものが課されている。「世界が変革されなかったのは、世界ががあまりに解釈されてこなかった」(P.101)からだ。
マルクスの素朴さについて。これが「あまりに解釈されてこなかった」事例のひとつとしてあげられている。「マルクスにおいては自然支配の原理がそもそも素朴に受け入れられている」(同)――マルクスは、人間同士の支配関係は変革される、と主張した。しかし、そこでは自然に対する人間の無条件な支配はなにも変化していない。いわばここには自然支配の諸形態が、今後も純粋に存続しうることについての絶対的な信頼(信仰)である。「私は自然をロマン主義的に美化する考えに関わりあうつもりはありません」(P.101)、しかし一方で人間同士による社会的支配を批判しながら、自然支配を「無傷の形で」(同)受け入れることなどできないのだ。
他方で、もはや我々はヘーゲルの哲学さえも救出することができない。同一化しつつ非同一的なものをものをとにかく把握しようとする試みを伴っていた弁証法という形態は、必然的に「世界はその現にある姿でそれ自体有意味である」と語ることになってしまう(『世界が精神の産物』(P.103)であるならば)。しかし、そのようなことは端的に主張できない。
ヘーゲルにおける無規定的なものと無規定性あるいは、存在と無の同一性について。ヘーゲルは、純粋な存在、純粋な意識、純粋な空間と時間の概念とは抽象の結果として考え、無規定的なものとしてはっきりと規定されている、と主張する。そして、そうであるがゆえに、その存在は無と同一化されるのである(とてもややこしい。少し噛み砕くと、Aというものを規定するには『Aではないもの』の存在が必要である。しかし、もしAしかない世界が存在するならば、Aは『Aではないもの』との区別がつけられず、必然的に無規定的な存在となってしまい、認識ができない。ゆえにAは無となる。ヘーゲルはここでさらに、『Aが無規定的なものとして規定されている』と主張する。だから存在が可能なのであり、無と存在が同一化されるのだ、という感じ……なのか?なんかスペンサー=ブラウンもこんなこと言っているイメージがあるけど、読んだことない*1)。アドルノは、この主張のなかでヘーゲルが「無規定的なものについて語りながら、その後こっそりと、無規定的なものを『無規定性』という表現に置き換えている」(P.107)ことを指摘する。
「無規定的なもの」。これは事象と概念は区別されていない非概念的な概念として用いられている(デリダの差延と類語として理解して良いと思う。ただし、表現として差延のように締まった感じがしない。『ヘーゲルの締まりのなさ』についてはアドルノも指摘するところである。これについては『三つのヘーゲル研究』を参照のこと)。しかし「無規定性」とは単なる概念である(痕跡である)。ゆえに、この「置き換え」は無意味なものではなく、実体の表現から概念への転換なのだ。「ヘーゲル哲学全体は元来、非概念的なもの*2をはじめから魔術的に消し去ることによってのみ、同一性に到達する」(P.108)。
しかし、このような態度はこれまでの哲学では当然のようにとられてきたものだった。というよりも、むしろ、そのように概念を用いることでしか我々は哲学をおこなうことができなかったのである。「私たちは哲学において、概念によってまた概念について語らねばならないのです」、「哲学における重要な事柄、すなわち概念が関わる非概念的なものは、はじめから哲学から排除されることになります」(P.109)。否定弁証法とは、このアポリア的状況から抜け出ようという試みとして構想されている。