sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

テオドール・アドルノ『否定弁証法講義』(第2回講義メモ)

否定弁証法講義
否定弁証法講義
posted with amazlet on 08.01.03
アドルノ 細見和之 高安啓介 河原理
作品社 (2007/11/23)
売り上げランキング: 17030

 引き続き、第2回講義メモ。第2回は第1回でおこなった話が「いや、そんなんヘーゲルも言ってるし、わざわざ否定弁証法って言い直す必要なくね?弁証法でよくね?アドルノいらなくね?」みたいな風に思われるかもしれないので「なぜ、否定弁証法なのか」という説明をおこなっている。
 肯定弁証法――ヘーゲルの単なる弁証法を否定弁証法との違いを意識して呼びなおすならば、そう呼びなおすことができるだろう。「否定の否定は肯定、公的的なもの、是認的なものである、ということ」はヘーゲル哲学の根底に存在している想定の一つである(P.28)。この思考過程はヘーゲルがおこなった「抽象的な主観性への批判」にわかりやすくあらわれている、とアドルノは言う。「たんなる対自存在としての主観性、つまり批判的に考える、抽象的で否定的な主観性――ここに否定性の概念が本質的に登場するのですが――が自分自身を否定し、自分自身の制限されたあり方を自覚しなければならない」。「自らの否定によって得られる肯定性(実定性)において、つまり社会や国家、客観的な精神、最終的には絶対的な精神の諸制度において、そのような主観性は自己自身を止揚する」(P.29)。我々の主観的な意識とは、それ自体ではなんら規定のされることのない抽象的な存在にすぎない(抽象的な主観性)。そして、それは自らに批判的な/否定的な存在である、社会的な客観性(他者、社会)、あるいは客観的な意識を通じてはじめて、実定的なものとなる。そうであるがゆえに、ヘーゲルは制度なるものを正当化している。「制度は不可欠であるということ、しかも主体がそもそも自己保存を行うためにも不可欠である」(P.31)。
 しかし、この点こそがヘーゲルに対する批判的考察が開始されるべき地点である。そしてその批判的考察が否定弁証法として始められるのだ、とアドルノは言う。アドルノヘーゲルに対する批判は「否定の否定は肯定性に帰結するのではありません」(P.33)というところからはじまり、「肯定そのものをそれ自体で価値へと高めるのではなく、まさしく、何が肯定されているのか、何が肯定されるべきで何がこうていされてはなないのかが、問われねばならない」(P.36)というところに辿り着く。ヘーゲルにおいては「否定の否定による肯定」が単純に物神化されている。肯定的なものという概念自体が含んだ、「実定性(所与のもの、鼎立されているもの、現に存在するもの)」と「肯定性(肯定に値するもの、よいもの、ある意味で理念的なもの)」という二重性が充分に吟味されていないのである。
 肯定的なものとして現れるこのものは本質的に否定的なもの、すなわち批判されるべきものである――このような否定弁証法の態度を、アドルノアウシュヴィッツ以降の哲学として想定している。そこでは「現実的なものは理性的である、すなわち存在するものには意味がある、という肯定的な想定は、もはや不可能」(P.37)だ。否定弁証法的な態度をもってでしか、我々は現実と出会えないのだ。