sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

Murmurous Statements

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 さっき作った曲をもうひとつ。ミニマルな構造とアンビエントな音像……といえばカッコがつくけれども、あえてカッコつけずに単なる「退屈音楽(Boring Music)」と呼ぶことにする。これは実は、私の考えた概念ではない。以下は、80年代NYで活躍したギリシャアメリカ人の作曲家ジョナサン・ポリフォニエスによる『退屈音楽宣言』より抜粋。

本来ならば、感情を表現したり、芸術的な欲求を満たしたり、儀式などに用いたり……とそのような用途/目的において音楽はなされる。しかし、退屈音楽はそれらの目的を放棄する。退屈音楽は何も目指さない。ゆえに退屈音楽はあらゆるところに存在する。その音が退屈を呼び起こすものであれば、それは退屈音楽と化す。退屈音楽は退屈である。そのような自己言及的な閉じの中で、退屈音楽は生まれ、そして一瞬にして消え去ってしまう。退屈音楽は感動や情熱などを喚起しない。しかし、その音楽が止んだ瞬間に退屈は停止されることとなる。退屈音楽は価値を逆転させる。日常と非日常の価値を。もはや退屈音楽が演奏されているときこそが我々にとって有り触れた日常的な体験であり、その音が止んだ瞬間に退屈から開放された我々の生活はもやは日常ではない。深夜のキッチンから響いてくる冷蔵庫のノイズは、ベートーヴェンよりも退屈だ。

 この宣言には、マリネッティによる『未来派宣言』の悪質なコピーでありながら、あらゆる音楽が消費されゆく80年代の風土への警鐘ともなっている。アンビエント・ミュージック、ニューエイジ、ミニマル、ECM……これらの「美しい音楽」の数々が消費される、その過程をポリフォニエスは批判する。しかし、悲しいことに退屈音楽もまた商品として消費される運命は退けられなかった。失意の中でポリフォニエスはNYを去り、そして1999年に先祖の故郷であるクノッソス島にて亡くなる。彼が最後に聴いていた退屈音楽は、聴き終わった後も回り続けるターンテーブルが再生するチリチリというノイズだった……。