このアドルノは虚弱すぎるし、耽美すぎる
アドルノ (岩波現代文庫 学術 178)posted with amazlet on 07.10.10
まだ読み終えていないのだが、すぐに書いておかないと何かと忘れてしまいそうな、少し慌しい日常を送っているのでメモ書き程度にマーティン・ジェイの『アドルノ』について書いておく(仕事に時間をとられたり、肉じゃが作ったり、腕立て伏せしたり、やることがたくさんあるのだ)。
まず、本の出来具合についてであるが、私がここまで読んできた(限られた数の)アドルノの思想を紹介する本のなかで最良のものであると言って良いと思う。アドルノだけでなく、アドルノと同時代のフランクフルト学派の思想家、あるいはその後の世代のフランクフルト学派についてまで広く細かいめくばりが効いている。また、アドルノが巻き起こした数々の論争(最も有名なものはカール・ポパーを相手にしたものか)についての記述が詳しく、これはとても勉強になった。アドルノに興味がおありで、実際にはまだ彼の著作に触れたことがないという人には「まずこの本から読まれよ」とオススメできる内容であると思う。
しかし、だ。これはこの本に限らず、あまねく「アドルノ本」に関して言えることなのだが、いかんせん退屈な本であるというのが問題だ。アドルノの魅力を2倍にも3倍にも萎縮させてしまう。勉強になる反面、その丁寧な記述によってアドルノは実に「何言っているかわからないくせに、言っていることは結構平凡だなぁ」という2流の人として描かれてしまっているような気がする。ますます「たしかに『脱構築の先駆者』かもしれないけれど、今はデリダとかいるから、アドルノなんかいらないんじゃないの?」というのは至極真っ当な評価であろう。
さらなる問題は「この本で描かれているアドルノは、弱すぎる」という点にある。これは細見和之も指摘しているところであるが、マーティン・ジェイは一貫して「(アウシュヴィッツによって)傷つけられた人」としてアドルノを描こうとしている(細見によるアドルノはこれ以上に耽美なのだが……)。ジェイによるアドルノは実に優しい。近代的理性によって失われた人間性を退行ではない別な方法で取り戻そうとしているし、いつか実現されるであろうユートピアを複雑に夢想しさせする。それもこれも「アウシュヴィッツという悲劇があったからだ。もしくはアドルノがユダヤ人だったからだ。それと、もしかしたらアドルノは芸術が大好きな人だったからかもしれない」というように分析してみせる。
その一方でマーティン・ジェイはこんな風にも言っている。
アドルノは歴史と哲学との弁証法的な関係を強調したが、彼自身の思想はその壮年期を通じて意外なほど変わっていない。したがって、アドルノ学にはマルクス学やヘーゲル学、ルカーチ学、ベンヤミン学にとってほど重要な「初期-後期」問題なるものは存在しない
これは的を射た指摘だろう。確かにアドルノの思想の根本的態度というのは意外なほど変化が無い。1931年、アドルノが28歳のときにおこなった講演『哲学のアクチュアリティー』(出版されたのは彼の死後)の根底に流れる彼の原理は、『否定的弁証法』(1966年)に至ってもほとんど変わっていない。しかし、だからこそ、この変わらなさがマーティン・ジェイの描くアドルノの「弱さ」を無効にしてしまっているように思うのだ――戦前/戦後を通じて、アドルノはアドルノだった(ストラヴィンスキーやラジオに対しての評価を幾分柔和にしていたとしても)。そうであるならば、アドルノを語るときにアウシュヴィッツを強調することはあまり意味がないのでは?と思ってしまう。「変わらなさ」を指摘できるのに、何故マーティン・ジェイはアウシュヴィッツを強調するのか、理解に苦しむところである。
しかし、アドルノを深く読もうとするものほど、そういった「傷つけられた人」としてアドルノを描く病に陥りがちであるように思う(私もかつてそのような読み方をしていた)。誰もがアドルノを前にすると「アウシュヴィッツが……云々」とか言い出してしまう。そして、決まりきったように「アドルノを平易に語ることは、アドルノを裏切ることになるのではないか……云々」と言うのである。こういう方々は『異化された大作《荘厳ミサ》』から読み直した方が良い(それにしても、今日作った肉じゃがが旨い)。