ピエール・ブーレーズを区分として
現代に作曲されている音楽を聴こうとしているけれど、若い作曲家が作る音楽を聴いていても結構ピンとこないことがある。「現代の音楽」のはずなのに、上手くそれが「現代音楽」のように感じない。
「現代音楽」という言葉を聴くたびに、私の頭のなかで想像される音楽はブーレーズのピアノ・ソナタである(冒頭に貼付したのは彼の第一ピアノ・ソナタ)。彼のピアノ・ソナタは3曲あり、全て40〜50年代に書かれている。性格に言えば、この作品は「かつて現代音楽だったもの」ということになる。全面的な音列技法や(第3番)「管理された偶然性」といった、これらの作品で用いられた語法も「作曲科の学生が課題で書く以外に使われていないのではないか」と疑いたくなるぐらいに古びてしまった。
今アカデミックな楽壇でどのような音楽が流行っているのかよくわからないけれど(エレクトロニクス?身体性?)、もはや音列の時代ではなくなったことはなんとなく感じる。しかし、それでも尚、ブーレーズの音楽が、私のなかで「現代音楽」という言葉と結びついている。人によってそれがシェーンベルクかもしれないし、シュトックハウゼンかもしれない。あるいはリゲティかもしれない。人それぞれそういう感覚が異なるのはわかっているけれども、あくまで私のなかでは「現代音楽=ブーレーズ」なのだ。
こういう感覚は、たぶん私の歴史観に起因するものなのだろうと思う。ブーレーズの音楽には「近代以降の西洋音楽の終着点」みたいなものを感じる。西洋において作曲(composition)とは、五線譜に書かれたものとして音楽を構成/構築する(compose)行為であった。音楽は作曲家によって紙の上において管理される。いくらベルリオーズやチャイコフスキーが感情を喚起させる音楽を書いていたとしても、実際に彼らがやっていたのは紙の上で音符を並べることにすぎない。この音楽管理の方法(あるいは管理しようとする意思)は、ブーレーズのトータル・セリエリスムにおいて最も強く表現されているように思う。
「バッハ以前/以降」、「ベートーヴェン以前/以降」という風に時代を区分するなら「ブーレーズ以前/以降」と言う区切りもできる気がするのは、ブーレーズ以降の作曲家が前述した「管理方法」から大きく逸脱しているからだ(もちろん、同時的に『ケージ以前/以降』という言い方もできるわけだけれど)。大げさに言ってしまえば「ブーレーズは最後の『作曲家』だ」ということになるだろうか。身体性、音響、エレクトロニクスの使用法、そういったものは五線譜上に書き記すことができない(指示することしかできない)。そこで作曲家は音楽を構成することはできても、音楽を管理することはできない(もっとも図形楽譜では指示/構成すらしていない)。ブーレーズ以降の「作曲家」のピンとこなさにはそういう理由があるのかもしれない。