青山真治『サッド・ヴァケイション』
青山真治監督による「北九州サーガ」の完結篇。冒頭から異常に暗い環境のなかでカメラが回されており「いきなりすごい絵を見せてくれるな……」と面食らってしまったが、こういう斬新な絵(もしかしたら元ネタがあるのかもしれない、しかし、それは私にはわからない)をポンポンと並べた構成を、安心して観ていられるという不思議さがこの監督にはある、と思う。冒頭で浅野がチャリを必死で漕ぐシーンで「ああ、これはもう大丈夫だ」と思わせる力強さとか。
映画の宣伝はこの作品を覆った「母性」について触れている。また、この作品から中上健次の小説へのトリビュートを読み取ることも出来るだろう。これらの指摘や記述はとても的確だが、あまりにも簡易的に記述可能な的確さである。深読みしろ、というわけではない――しかし、この作品に関する記述はもっと深められてしかるべきだろう。
少なくとも私には、「母性」へと主観を限ってたときに石田えり演じる母親と対比させれる中村嘉葎雄の厳格かつマトモな「父性」はどうなるのか?と単純に思われるし、それよりももっと単純に「中上トリビュート」でありつつ中上を乗り越えるような作品であるように思われた。この作品が持つ射程は「母性」や「中上」という枠組みから大きくはみ出した射程を持っているのだ(というわけで、あえて母性や中上には触れないで話を進めていこう)。
しかし、注目されるのは作品に隠されているものではなく、あからさまに表面に出ているもの、使用されている数々の「言語」である。この作品のなかでは北九州弁(この記述が正確なものかどうかは不明だ)がメインの言語として使用されているが、その点は『ユリイカ』についても同じことが言える。しかし、この作品では使用されている言語に限定されたところがない。綺麗な標準語を使用している人物もいれば、若者言葉を使用しているものもいる。また、カタコトの日本語を話す中国人や、日本語が話せない中国人も登場する。これらの演出は強烈に登場人物がそれぞれ他者として描かれているという印象を強めているように思う。
ゆえにその他者たちは分かりあえていない。劇中で結ばれることとなる浅野と板谷の間には大きな隔たりが存在しているし、『ユリイカ』から続く光石研と斉藤陽一郎のかけあいのなかにも理解は生まれていない。登場人物のそのような関係性に触れるものとして、オダギリジョーが語る「俺たちは所詮、寄せ集めだ」というセリフが象徴的である。しかし、だからといって「寄せ集め」の人間関係が破綻しているわけではない。「他者性を理解しつつも、とりあえず全てを許容していく」あるいは「他者性を理解しているから、うわべだけはとりつくろっていく」というふたつの戦略、言わばどちらも「不完全なコミュニケーション」によって上手く生きている。特に間宮運送のなかにある秩序は、この不完全なコミュニケーションのうち後者の戦略をとることによって、問題が露見しないような秩序が立てられている。
しかし、その秩序は「言語を用いないコミュニケーションをするもの(浅野)」と「言葉を用いて積極的にコミットメントをおこなっていくもの(宮崎。しかし彼女はかつて言葉を用いたコミュニケーションを拒絶したものでもある)」が状況に介入していくことによって、大きく揺れ動く。これまで触れられてこなかった問題がポロポロと露呈していく。秩序だった状況が徐々にひび割れていく。再び、そこに秩序が戻ってくる過程は、悲しいことに、状況からひとり、またひとりと人物が離れていくことによって行われる。
しかし、再生された秩序は以前あったものとは異なったものだろう――それは現状を維持するための場当たり的な秩序ではなく、未来に進むための秩序であるように思える。「俺は来世に期待」という投げ出しではなく、「現状を良くしよう」というコミットの態度が物語の最後で登場人物に生まれている。この改善によって、悲劇は大団円へと回収されていくのである。観ていて救われたような気分になる映画だった(ただ、最後のシーンはすごく『フィクション性』を突きつけられるような気がして、やや興ざめしてしまったけれど)。
あと「そこで嫁を起用かよ!」とか、光石研が最高とか、ちゃんと面白いポイントを配置しているので偉いです。それと、板谷の「めんどくさくなったら言ってね」というセリフがグッと来る。そんなこと言われたら再度惚れ直すに決まっている。