sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

オリーヴ少女は小沢健二の淫夢を見たか?

こういうアーティストへのラブって人形愛的ないつくしみ方なんじゃねーのかな、と。/拘束された美、生々しさの排除された美。老いない、不変の。一種のフェティッシュなのだと思います*1

 「可愛らしい存在」であるためにこういった戦略をとったのは何もPerfumeばかりではない。というよりも、アイドルをアイドルたらしめている要素の根本的なところには、このような「生々しさ」の排除が存在する。例えば、アイドルにとってスキャンダルが厳禁なのは、よく言われる「擬似恋愛の対象として存在不可能になってしまう」というよりも、スキャンダル(=ヤッていること)が発覚しまったことによって、崇拝されるステージから現実的な客席へと転落してしまうからではなかろうか。「擬似恋愛の対象として存在不可」、「現実的な存在への転落」。結局、どのように考えてもその商品価値にはキズがついてしまうわけだが。もっとも、「可愛いモノ」がもてはやされているのを見ていると、《崇拝の対象》というよりも、手の平で転がすように愛でられる《玩具》に近いような気もしてくる。
 「生々しさ」が脱臭された「可愛いモノ」、それを生(性)的なものが去勢された存在として認めることができるかもしれない。子どもを可愛いと思うのも、彼らの性的能力が極めて不完全であるが故に、我々は生(性)の臭いを感じない。(下半身まる出しの)くまのプーさんが可愛いのは、彼がぬいぐるみであるからだ。そういえば、黒人が登場する少女漫画を読んだことはない――彼らの巨大な男根や力強い肌の色は、「可愛い世界観」に真っ黒なシミをつけてしまう。これらの価値観は欧米的な「セクシーさ」からは全く正反対のものである(エロカッコイイ/カワイイなどという《譲歩》は、白人の身体的な優越性に追いつくことが不可能である黄色人種のみっともない劣等感に過ぎない!)。
 しかし、可愛い存在を社会に蔓延させたのは文化産業によるものばかりではない。社会とその構成員との間にある共犯関係によって、ここまで進歩したものだと言えるだろう。我々がそれを要求したからこそ、文化産業はそれを提供したのである。ある種の男性が「(女子は)バタイユ読むな!」と叫ぶのも「要求」の一例だと言えよう。しかし、それは明確な差別であり、抑圧である。

 「日本の音楽史上で最も可愛かったミュージシャンは誰か」と自問したとき、私は小沢健二のことを考える。童顔で、ひねくれた歌詞を、ギリギリな歌唱力で歌う彼の姿はまさに少年そのものだった(菊地成孔も同じ指摘を行っている)。ゆえに彼は可愛い。しかし、そのような存在であり続けることを要求された、ということは少なからず抑圧になっていたのではないか。だからこそ、「大人になれば」分かること、大人になってから分かったことは歌わなかった。(そもそも不可能だったのかもしれないが)セックスのことなんて歌わなかった。
 当時のオリーヴ少女のことなどよく知らないが「小沢健二は擬似恋愛(擬似セックス)の対象として見られていたのだろうか」と考えてしまう。それよりも常に自分の手の内にあって欲しい人、大事にされてきたヌイグルミのような存在として扱われていたのでは?――小沢健二が打ち出したアンビエント・ミュージック的な音楽とは、そのような抑圧からの脱却だったのかもしれない。依然としてそこには「生々しい感覚」が除去されている。それは少なくとも、要求への裏切りにはなっていないギリギリの選択だったように思える*2

Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学

Ecology Of Everyday Life 毎日の環境学

*1:8/30の記事のコメント欄より

*2:以上のエントリは、全てインチキです