sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

ジル・ドゥルーズ『意味の論理学』

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学 下

意味の論理学 下

 「僕らって言葉の意味とかを確定的なものとして、ひとつに定めようとしてしまいがちだけど、実際それって本当は不可能なんだよね〜」という感じの話を、ルイス・キャロルとかジェイムズ・ジョイスとかから導き出そう、というような感じの本なのだと思う(ホントか)。頑張って読んだけれど、ここ何年かで最も「はぁ〜、なるほどなぁ……。おもしれ〜」という感想を抱けなかった本でもある。どうしたものか。
 その感動の無さは「なんだこれ!わかんねぇ!!」という苛立ちとは異なったものだ、と思う。これは、教養高くてとても難しい本だ。特にラカン言語学の術語が頻発するところとか特に。それらに関して私は門外漢も甚だしいところなのだが、しかし“なんとなく”で言いたいことが分かる(分かんない具合で入ったら最近ではキルケゴールのほうが分からなかった……)。でも、そこで私が“理解するもの”は、ドゥルーズの言いたいこと、というよりも「あれ?これってアドルノもこんな風に言ってるんじゃないか??」という感じなのだ。だから、私にとって、ドゥルーズの言っていることは既にアドルノから学んでいたもの、として感じられてしまった。
 もちろん、ドゥルーズアドルノでは違う。けれども、前者がカバン語を語るとき導き出そうとするものと、後者がヘーゲル弁証法(あるいはベートーヴェンの《英雄》)から導き出そうとするものにはすごく重なるものを感じる。誠実で勤勉な人間であれば、似てる、けど違う、じゃあどこが異なっているのか、についてテキストをもっと熱心に読むべきだろう。っていうか、私もするべきなのだ、たぶん。アドルノ、という差異に留まり続ける思想家に魅せられた者ならば「ドゥルーズアドルノは似ている」と語ることさえも許されないことかもしんないし。
 まぁとにかくドゥルーズを媒介としてアドルノを読むことは可能である、という直感は得たし、またアドルノを読みたいなぁ、という気持ちにはさせられた。