sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

DATE COURS PENTAGON ROYAL GARDEN『Franz Kafka's Amerika』

 ヨーロッパからアメリカにやってきたカール・ロスマンという青年が不条理な事件の連続によってどんどん身を落としていき、しまいには消失点に向かうようにして失踪する――現在出ている池内紀訳の全集では『失踪者』というタイトルに改められている*1フランツ・カフカの『アメリカ』はこのようなあらすじの長篇小説である。
 その作品をそのままタイトルに冠したデートコース・ペンタゴン・ロイヤル・ガーデンの新作は、そのままカール・ロスマンの消失点へと集約されていくように思われた。
 前二作と比べると落ち着いた、というか渋い内容。1時間40分を超えるこの二枚組には「ソフィスティケートされた70年代マイルスか!?」という時間や「グロテスクなウェザリポートか!?」という時間とか混在しているのだが、そのような言葉をつけることを許さないような、多様で、形容しがたい音楽になっているように思う(変化だけに限定して言えば、“脱構築ファンク”から“脱構築ジャズ”へとシフトしているように聞こえるのだが)。形容すべき言葉はたくさんある。しかし、それが過剰であるがゆえに、形容が不可能な状態へと向かっている。この形容の消失点が、『アメリカ』におけるカール・ロスマンの消失点へと重なって響くのである。
 ただ、消失するために行う行為のベクトルはおよそ正反対に向いている。というか、多くのカフカ作品の主人公がそうであるように、カール・ロスマンも不条理な世界へと飲み込まれていくため、実質的には行為らしい行為を何もしていないのに対して、DCPRGは過剰を身に纏うことによって自ら消失点を作り出している。「これはマイルス・デイヴィスの引用だ」とか「ジョー・ザヴィヌルだ」とか私たちは自信をもって言うことができない。そういう意味で、これは透明性を持たない音楽だ、とも言うことが出来るだろう。情報のジャングルのなかで、迷彩服を着るようにしてDCPRGは見事に隠れてしまう。だから、私たちはこれを「○○な音楽だ」と指し示すことができない。
 過剰さによって音楽を不透明化させるこのような事態を、ピエール・ブーレーズの音楽と重ね合わせることもできる。しかし、私のなかで最もしっくりくるのは『アメリカ』よりブーレーズより、トマス・ピンチョンだったりする。アルバムには「競売ナンバー49の叫び」というピンチョンのタイトルから拝借した曲名もある。それを単純に結び付けているわけではないのだけれど、『V.』とか『重力の虹』っぽいです。

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*1:底本とした原稿が異なるため、細部の設定やエピソードが異なっているのだが