拘束する者が拘束される屈折した愛について/あとティボー
失われた時を求めて―完訳版 (9)posted with amazlet on 07.01.28
8巻の終わりで泣きながらアルベルチーヌと結婚することを母に告げた語り手の「私」。9巻では婚約者、アルベルチーヌとの同棲生活が描かれているのだが、ここに描かれた愛のかたちがとても屈折していて面白かった。そもそも「私」は、ちっともアルベルチーヌを愛してなどおらず、ただ自分が観ていないところで誰かと会っているだとか、同性愛的な交流へ向かうところに何故か嫉妬してしまう一種の「所有欲」だけで結婚を決めちゃっているようなものなのだ。で、いちいち彼女に監視を付けたり、厳しい決まりごとを押し付けたりするんだけれど、そんなことをしてもちっとも「私」は満たされず、むしろやればやるほど嫉妬や疑いで苦しめられる……という泥沼に陥るのである。拘束しているはずの主体が、逆に拘束されているような関係はロバート・クーヴァーの『女中(メイド)の臀(おいど)』を想起させられた。「拘束する男は非モテ」というような価値観が一般的に流布している昨今においてなら「私」への批難は必死だろうな、とか思う。
実際に存在する固有名詞が頻繁に登場するのがこの小説の面白いところでもあるのだが、この巻では20世紀前半のフランスを代表するヴァイオリン奏者であるジャック・ティボーの名前が出てきた。
フランク、フォーレ&ドビュッシー : ヴァイオリン・ソナタposted with amazlet on 07.01.28
ティボーの活動していた時期とプルーストの生きていた時期とは重なりがあるため(物語の舞台となる時間は、まさにティボーが『若い天才』としてバリバリ活躍していた頃である)、もしかしたら作家がティボーの演奏を聴いたことがあるのかもしれないな、などとは思っていたのだが本当に出てくるとなるとやっぱりビックリしてしまう。
シマノフスキ(ポーランドの作曲家)のヴァイオリン・ソナタを弾くティボー。テクニック的なところで言えばこのぐらいの演奏家は現代ならごろごろしてそうだけれど、ティボーのフレーズの作り方は一聴の価値あり。録音の悪さのせいもあるが、この人の録音を聴くと「ああ、アンニュイってこういうことだろうな」などと思う。