sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

最もエレガントなポスト・モダン・ミュージック

シュニトケ:合奏協奏曲第1番
クレーメル(ギドン) シフ(ハインリヒ) ヨーロッパ室内管弦楽団 グリンデンコ(タチアナ) スミルノフ(ユーリー) シュニトケ
ユニバーサルクラシック (1994/02/02)

 12月になってしまい卒業論文の〆切まで3週間を切った。ここ何日かはプログレか現代音楽か題材の一つであるジャズを聴きながら作業を進めている。歌詞のある音楽を聴いていると結構テンションにノイズが入ってしまうので邦楽はもちろん、洋楽ロックも聴かなくなってしまった。こういうときは「最近聴いていないなぁ」っていう録音を聴きなおしたりする――それでアルフレート・シュニトケについての記事を思い至ったわけである。

 1934年ソ連領内にてユダヤ系ドイツ人とドイツ系ロシア人の間に生まれ、自身の宗教はカトリックという複雑な文化的アイデンティティを持ったシュニトケは、1998年に死ぬまでに交響曲を9曲(第9番は未完)、合奏協奏曲を5曲(うち1曲は交響曲も兼ねる)、弦楽四重奏曲を4曲、独奏楽器のための協奏曲を8曲、室内楽曲と舞台音楽をいくつかと映画音楽をたくさん……と「古典的形式の名前」を冠した作品を多く書いている。20世紀にここまでクラシカルな形式にこだわっていたのはショスタコーヴィチ吉松隆と彼ぐらいなものだが、クラシカルなのは名ばかりでシュニトケの作品ほど「ポスト・モダン」を感じさせる音楽は他にない。バッハ以来の西洋芸術音楽における様々なイディオム――20世紀の音楽ではジョン・ケージ、クシシュトフ・ペンデレツキ、ルイジ・ノーノ……etc――を万華鏡のように散りばめた作品は「多様式主義」と呼ばれ、様式の反復によって「新しい作品」を生産していった(プログレをクラシック化する試みでは、吉松隆も立派に『多様式主義』なのだが)。

 彼の出世作《合奏協奏曲第1番》も「多様式と引用の織物」とでも呼べる作品である(ちなみに合奏協奏曲という楽曲形式はバロック期を最後に一度歴史から消えてしまったものだ)。そこにはバッハの引用、12音技法、トーン・クラスター、プリペアード・ピアノと言った「ロマン派のない西洋音楽史」が盛り込まれている。しかし、カットアップのように自由につながれた多様式のなかでは、直線的に流れる歴史は解体され、そして失われたものと変容する――そして、バッハを思わせる無限カノンから、アルゼンチン・タンゴのメロディが現れたとき、「消失した歴史」こそが「現代」そのものなのだということに我々は気付くこととなるだろう。

 ドゥルーズの『シネマII』が翻訳される一方で、18世紀を生きたディドロの奇書『運命論者ジャックとその主人』の新訳が刊行される21世紀の書店で流されるのに最も相応しく、そして最もエレガントな音楽としてシュニトケの音楽を挙げたい。「ビートルズの新作」と共にシュニトケは聴かれるべきなのである。
 シュニトケの主要な作品群はギドン・クレーメルが熱心に録音に残しているのだが、そのほとんどが廃盤。これはなんとかして欲しい事態だ。ドイチェ・グラモフォンも五嶋龍をCDデビューさせている場合ではない早いところ合奏協奏曲ボックスあるいは交響曲ボックスを組んで発売してくれ(龍くん、何度も悪いように言ってごめん。でも、君の録音、お姉さんのよりも魅力的に感じなかったんだ……)。