川上弘美と逆説的な女性性
川上弘美という作家がいることは前から知っていたのだけれど、現代の作家に手を出す勇気がないせいで読まないでいた。急に読む気になったのは先日「表紙がくるりの岸田繁だった」という理由で購入した雑誌に、インタビューと写真が載っていたからである。不思議な表情を浮かべて、タイルばりの和式トイレがありそうな飲み屋のカウンターに座る作家の姿に、なんとなく好感を持った。ふんわりとして優しい雰囲気。もし、川上弘美がシャッグスのメンバーみたいな顔だったらたぶん読む気にならなかったんじゃないか。
作家の写真の印象と作品の印象とが合うこと、って私にとっては結構珍しいことなのだけれど川上弘美の場合、気持ちが良いぐらいに合ってしまった。そういう付加価値みたいなものもあって『蛇を踏む』の文庫本に収められた作品はどれも面白く読めた。自分が理解できる範疇で「良い小説を書く作家だな」と思う。「女流作家」というものがどうも苦手なのだけれど、これは声高に女性性を主張していない感じがして、違和感などが無かった。「声高に女性性を主張しないこと」が、逆説的に女性性を主張しているのかもしれない。
うまく言えないけれど、私はその「逆説的な女性性」にとても惹かれる(沈黙を守り、従順な『古き良き』女性が好き、というわけではない)。特に作品上の性愛の表現は「あぁ、これはとても良いな」とため息が出そうになった。具体的なファンタジー、というか。「言いたくても(はずかしくて)言えない……!でもこんな言いかたなら出来る……かも!」という表現のせめぎ合い(みたいな作家の意図があったかどうかは別として)に面白さを感じてしまうのである。隠喩的表現なら隠喩的表現、直接的表現なら直接的表現と分けてあるものなら、珍しくもなんともないのだけれど、これはなんか新しかった。良いですね、恥らいのあるエロ。大体苦手なんですよー、アメリカ的なハードコア・セックスって。
ちなみに私の中の「ベスト・オブ・エロ隠喩」は、ナボコフの『ロリータ』にある「私の情熱の笏」というもの。この部分新訳ではどうなっているか少し気になるけど、まったくどうでも良い話(今度新訳の方も文庫になるそうな。ちょっと古いからなぁ、大久保訳)。とにかく「もう少し別な川上弘美作品も読んでみようかな」と思えたので良い気持ちになって、本棚に文庫本を収めたのだった。