sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

内輪の射程

 id:mochilonさんの日記に「どっからどこまでが内輪なのか」って素朴な疑問が書いてあって、ふと思い出したのが太田省一さんの名著(たぶん)『社会は笑う』。北田暁大『嗤う日本の「ナショナリズム」』を書く際に大きく影響を受けた本として一時期少し話題の本になったなぁ。今や「はてな論壇」とか誰も言わなくなったし、つい去年のことなのに話題の流れってはぇぇ。


 そんなことはさておき、mochilonさんの疑問に答えられるような内容がこの本にはあると思う。とんねるずの登場によって「テレビ的な笑い」に内輪ウケが持ち込まれ、その「内輪」の中に視聴者も取り込まれるようになった、という話がある。ここで指摘される「内輪空間の拡大」はスムーズに納得されることなんだろうけれど、言葉自体が随分矛盾していますよね。「内輪」なのに「広い」って。「しかもテレビって全国区じゃんかー。内輪なのに全国区ってどうよ?」と。たぶん、mochilonさんの「僕にははてなの中枢だって大きいクネクネに見える」という不思議な感覚と「内輪空間の拡大」という言葉が持ってる不思議さって同じものだと、想像してしまう(どうだろう?)。もっとも私は「はてなの中枢」ってどこだろう……と思ってしまうけど。アンテナ登録数300超えてる人周辺か。わがんね。


 しかし、「これこれこういう点があるからあのコミュニティは《内輪空間》だ」と明確なことはなんとも言えないんだと思う。逆に「コミュニケーションは不可能だ。故に《内輪空間》は存在しない」みたいなことって言えると思うし。ただ「排他性」や「閉鎖性」がそれが《内輪空間》の条件となっているのは自明だ。そうすると日本に来たガイジンが「ケッ、アイツら日本語しかしゃべらないのなんとかしろよ!内輪民族が!!」とか言って日本全体を内輪空間としちゃうことも可能だしな。どこまでも拡大することが可能な気がする。線引き不可能……?