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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

逃走するシェーンベルク/絶対音楽の呪縛

シェーンベルク :室内交響曲第1番 / 6つの管弦楽伴奏付歌曲 他
マーク(アレッサンドラ) ドレスデン・シュターツカペレ シェーンベルク シノーポリ(ジュゼッペ) ドレスデン州立歌劇場合唱団 トムリンソン(ジョン)
ワーナーミュージック・ジャパン (2000/01/19)
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 シェーンベルクが戦後に書いた「問題作」、《ワルシャワの生き残り》を聴く。1947年に書かれたもので、タイトルから予想できるように「ナチスに虐殺されたユダヤ人へのレクイエム」的な作品である。編成は朗読+合唱+オーケストラというプロコフィエフの《ピーターと狼》みたいな感じだけれど、作品の性格は180度異なる。読み上げられるテキストはシェーンベルク本人が書いていて、結構これが過激である。「ポーランドの地下で逃亡生活をしていたユダヤ人のところに、ドイツ軍が踏み込んできて、自分も含めて捕まっちゃう。ナチの軍曹の扱いはそりゃあもう酷くて、殴るわ蹴るわ。気がつくと牢屋の中にいて、自分以外の仲間は全員ガス室送り。一人ぼっちの主人公は、ガス室の中に送られた仲間たちが歌う『申命記』からの一節を聞く」…というゾッとするようなもの。


 この作品のオーケストラの扱いは、語る場面とシンクロするように用いられている。といっても、そこはシェーンベルクだからディズニー映画のようにメロディで人の心を動かすわけではなく、12音技法で書かれた「恐怖映画のサウンドトラック」的。音列自体には何の意味も含まれていないのだが、テキストと共に存在することによって、音列(そしてその操作)に具体的な意味が生じているように聴こえる。


 のだが、この「意味の生じ方」、それはシェーンベルクにとってかなりの問題なのではないだろうか。後期ロマン派最後の末裔として《グレの歌》や《室内交響曲》を書き、そして無調/12音技法へと到ったシェーンベルクの意図の中には、19世紀後半からあった「絶対音楽」的な思想が存在していた。器楽が珍重されれ、「音楽は音楽しか表現しない」という自己言及的な芸術へと向かった「絶対音楽」。それを端的に言い表しているのがヴァッケンローダーの「器楽曲は一つの隔絶された世界それ自体だ」という言葉である。ある時期において、その「音楽しか表現しない音楽」を創作するために、シェーンベルク(むしろ、ヴェーベルンが重要かもしれないが)の手法は非常に有効なものであった。音列は具体的な内容など何も語らないければ、表題が物語的なヴィジョンをかきたてることもない。この究極の無内容さがシェーンベルクに「ドイツ音楽の優勢は 今後100年間保障されるだろう!」と言わしめることとなった、と私は考える。


 だからこそ《ワルシャワの生き残り》で、「音楽」の扱われ方が問題となってくる。ここでは音楽はまるでテキストの添え物だ。「音楽」が「具体的な内容」を持ち、(アドルノが痛烈に批判した)社会主義リアリズムのプロパガンダ音楽のようにも響く。この音楽のメッセージ性によって、シェーンベルクの音楽は社会へと参入するように取り扱われる、が、それによって「絶対音楽性」は瓦解してしまうのである。保障された「ドイツ音楽の優勢」はどうなってしまうのだ…などと思いながら、この「転回」が一種の「挫折」にようにも思えた。この時点、1947年の時点で「現代音楽(絶対音楽)の未来(の無さ)」が浮かび上がるような気がするんだよね。