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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

イェイツの『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス主義の伝統』を読む(原書で) #8

Giordano Bruno and the Hermetic Tradition (Routledge Classics)
Frances Yates
Routledge
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今回は第5章「ピコ・デッラ・ミランドーラとカバラ魔術(Pico Della Mirandola And Cablist Magic)」について見ていきます。この章はここまでで一番ラテン語の引用が多くなかなか大変な部分ですが、前章までで見てきたフィチーノと同様にルネサンス魔術に強い影響を与えた重要人物としてピコの活動がまとめられています。彼がおこなった重要な業績とはなにか。章のタイトルにもある通り、彼はルネサンスの魔術にユダヤ起源のカバラ魔術の要素を混ぜ込んだのでした。そもそもこのカバラ魔術についてですが、フィチーノが提唱した自然魔術とは違い、精神的な力、宇宙の自然的な力を超える力を利用するもので、天使や大天使、ヘブライ語の神の名前を示す10の言葉に呼びかけることでさらなる力を得る、というものです。ルネサンスの精神は、ヘルメス・トリスメギストス、エジプトのモーセカバラのあいだにはモーゼの言葉を書きとめたものとしての共通点を認めていました。また、ピコはカバラにモーゼが残した秘密の原理が表現されている、と信じていたようです。イェイツはヘルメス文書とカバラのあいだにある対称性に注目しています。エジプトにおいて法律を与えた者は、言葉とモーセが知っていたような創造の説明を含めた神秘的な教えを与えます。カバラもまた、ヘブライに法律を与えた者が創造の神秘についての説明を与えるのです。また、ヘルメス文書とカバラには世界の創造が言葉によっておこなわれる、という点でも共通しています。イェイツによれば、ヘルメスとカバラを融合させた「ヘルメス主義的カバリスト」の伝統を作ったのがピコという人物、ということです。


ピコは1486年、900本の論文を従えてローマへ向かいます。それは敵対するすべての哲学者と和解するための公開討議をするためでした。ソーンダイクによれば、ピコの論文には、オルフェウスの聖なる詩や、カルデアの神託、ユダヤカバラ、そしてヘルメス・トリスメギストスの文書への偏向があったそうです。この討議は開催されることはなかったのですが、ピコの論文には神学者からの講義が寄せられ、これに対してピコは1487年に『人間の尊厳について(On the Dignity of Man)』という弁論書を出版します。この本はルネサンス期に大反響を呼び、ルネサンス魔術の宣言書となります(!)。こうして、フィチーノによって導入された新しいタイプの魔術は、ピコによって完成されます。イェイツはここでピコの900本の論文のなかにある24の魔術的結論(Conclusiones Magicae)を重要視しています。これは部分的には自然魔術、部分的にはカバラ魔術についてのものですが、まずは自然魔術についてです。


第1の魔術的結論、ここでピコは「現代の魔術」が悪いものであり、根拠がなく、悪魔の仕事であるとして批難をおこなっています。ここで言われている「現代の魔術」とは自然魔術でなく、中世の形が変えられていない魔術のこと。次の結論はこんな風に始まっています。「自然魔術は正当で、禁じられていない(Magia naturalis licita est, & non prohibita…)」。ピコの考える自然魔術とはどんなものなのか? 続きをみていきましょう。第3の結論は「魔術は自然科学の実践部分である(Magia est pars practica scientiae naturalis)」。第5の結論は「天の予兆を観察することや地の影響力の力がなく、そしてそれらが隔てられ、実行や統合がないのであれば、魔術は不可能である(Nulla est uirtus in coelo aut in terra seminaliter & separata quam & actuare & unire magus non possit)」第13の結論は「魔術を執り行うことに、他に綺麗に結びつけるようなものはない(Magicam operari non est aliud quam maritare mundum)」。これらの3つの結論によりピコが考える自然魔術とは合法なもので、天と地のあいだのつながりを自然の存在を正しく使うことによって効果を発揮するもの、ということが明確になるとイェイツは言います。


しかし、第24の結論で彼はこんな風に言います。「あらゆる物質の本性の力を得る魔術を実行することにおいて、隠された哲学の原理から、性質と形象を得ることは必要不可欠である(Ex secretioris philosophiae principiis, necesse est confiteri, plus posse characteres & figuras in opere Magico, quam possit quaecunque qualitas materialis.)」。イェイツによればこれは物質的な存在がもっとも力を持つのでなく、魔術に使われる物質は作られることがなく、実際の魔術においては「性質(characters)」と「形象(figures)」がもっとも実行力を持つという明確な宣言になっている、と言います。また、ここでピコが言っている「形象」とは、護符を用いた魔術における「図像」と同じなのではないか、と。ピコの自然魔術は自然の存在の操作だけに留まらず、こうした魔術的な印を使ったものだったことがここに表れている、というのがイェイツの分析です。そして、こうした結論のなかで、彼は自分の自然魔術が良い魔術であって、悪い魔術とはまったく違うものだ、ということを強調するのです。この自然魔術の方法には、フィチーノとの共通点も数多く見つかっていました。


ここまで見てきたピコの自然魔術をみると、彼がまるで単なるフィチーノの追従者と思われかねません。ピコのオリジナリティが発揮されるのは、この自然魔術にカバラ魔術を加えることによって本当の効果的な魔術となる、と唱えたことでした。彼はカバラを「自然魔術の至高」とみなしていたのです(ちなみにフィチーノヘブライ語を少ししか知らず、カバラについてはほとんど無学であったそうです)。


そもそもカバラってなんですか? というところですが、イェイツはゲルショム・ショーレムの『ユダヤ神秘思想(Major Trends in Jewish Mysticism)』から短くまとめています。ここではさらに抜粋して紹介しておきますが、中世スペインで「10のセフィロトと22のヘブライ語アルファベットの原理を基礎として発展した」魔術だそうです。セフィロトとは「もっとも一般的な神への10の名前であり、それらすべてを形作るひとつの偉大な名前」という説明がされていますが、このへんはWikipediaにも詳しくありますからググってみてください。これを利用した魔術は13世紀のユダヤ系スペイン人、アブラハム・アブラフィアによって高められたんだとか。ヘブライ語の文字をいろいろ操作して、いろいろ計算したりして霊的なものを召喚しよう、という大変複雑な魔術はであったそうです。


で、ピコはこの複雑なカバラの統合理論に取り組んでおり、24歳で作り上げた、と言います。当時すでに同時代のユダヤ人よりもこの方面に明るかったそうですから大変な才人だったのでしょう。その情熱はどこからきたのか。その源には、ヘブライ語カバラを学ぶことによって、キリスト教の完全なる理解が導かれるハズだ、という考えがあったようです。そのなかで彼はカバラの知識のうち「思索的なカバラ」を他のものと区別して考えました。この「思索的なカバラ」をピコはさらに4つに区分します(ただしイェイツが触れているのは2つだけ)。第1はカトリックの哲学として。ここではヘブライのアルファベットを回転させる術についての言及があります(この術は、前述のアブラハム・アブラフィアによる文字の組み合わせのことだと考えられます)。第2に3つの世界への暗示として。ここでは天を超えたセフィロトと天使たちの世界、星々の天、そして地上世界、という風に世界が考えられます。そしてピコは前者の術を「組み合わせの術(ars combinandi)」と名付けるのです。


ここまできて、ピコのカバラが大きく2つにわかれていることが確認できる、とイェイツは言います。そのひとつが「自然魔術よりも優れた方法で力を得る術」であり、もうひとつが「組み合わせの術」なのです。ピコはそれ以外のものはダメな魔術、とくに悪霊をつかった魔術などはカバラの名誉を失墜させる悪い形式である、と繰り返し弾劾します。邪悪な魔術師がいて、彼らはモーゼなどから伝えられた技術を使っている、と主張するがそれは全部間違っていて、悪魔の使い手なんだ、キリストの奇跡は魔術によっておこなわれた、と彼らは言うが、キリストの奇跡は魔術やカバラでおこされたものではない! とか。


ピコがルネサンス期の魔術に及ぼした影響は大きく、その衝撃力はフィチーノ以上だったに違いありません。若かったこともあるんでしょうけれど(イェイツはピコを、フィチーノよりも大胆、と評価しています)、目立ち過ぎてしまったためか異端視されて、著作の出版を禁じられてしまいます(当時の教皇、インノケンティウス8世はオカルト嫌いだったんだって)。その後、フランスへの逃亡中に逮捕されますがロレンツォ・デ・メディチがあいだに入ることで、ピコは解放され1494年に死ぬまでフィレンツェで暮らしたそうです(享年31歳。若い!)。1492年にアレクサンデル6世に新しい教皇となると世の中の雰囲気も変わってくるのですが(アレクサンデル6世はインノケンティウス8世と真逆で、オカルト大好きだったそうです)、ピコはすぐに亡くなってしまうのですね。残念。


といったところで今回はおしまいです。おつかれさまでした。