イエイツの『記憶術』を読む #9
第十二章 ブルーノ記憶術とラムス記憶術の衝突
さて、前回はジョルダーノ・ブルーノが1583年に出した通称『秘印』という作品についての話で終わりました。繰り返しになりますけれど、イギリス(エリザベス朝時代)で出版されたこの本はあまりにオカルトじみていたせいか、受け入れられませんでした。一部のサークルでは「こりゃ、すごい」と言われたんだけれど、まぁ、メジャーだったのがプロテスタントだったもんで仕方なかった。しかし、その一年後の1584年のイギリスでは、熱烈なブルーノ信奉者とラムス主義者のあいだで論争がおこっていました。ラムス主義については第十章で触れてます。忘れている方はそちらを確認、ということで。第十二章は、アリグザンダー・ディクソン(ブルーノ派)VSウィリアム・パーキンズ(ラムス派)によるこの記憶術論争の模様を追っています。
イエイツの見立てによれば、この論争は「俺のほうがすごい。俺のほうが本当の記憶術だ」というゴジラ対メカゴジラ的な対立にとどまらず、別なニュアンスがある。「双方共に、自分の記憶術こそが道徳的で正しく従って真に宗教的だと考え、相手のやり方は不道徳、不信心で一人よがりのものと見なしている」(P.321)のですね。そこにはメソッドの優劣を比較するだけではなく、宗教的な対立が存在している。ただしこれは、単純な新旧の対立ではない。重要なのは双方がともに近代化されたものであった、という点です。ラムスによる記憶術はもちろん、ブルーノによる記憶術もルネサンス的な変容を受けたものであることをイエイツは強調しています。また、そこには「想像力」というものが当時のヨーロッパにおいて、どのように扱われていたのかも示唆しています。「心の内なるイメージはラムス主義の方法によって全面的に排除されるべきなのか、それとも魔術によって発展させられて現実把握の唯一の手段とならねばならないのか」(P.331)。論争が人々につきつけたのはこのような二者択一だったのです。
第十三章 ジョルダーノ・ブルーノ――記憶術に関する後期の著作
イギリスにおける記憶術論争の間には、ブルーノもまたイギリスに滞在していました。このとき彼はフランスの駐英大使の人に保護されていたらしいのですが、1586年にこの駐英大使と一緒に彼はフランスへと戻ります。第十三章はそこからの話。ブルーノはパリに戻って、フランス人のアリストテレス派の学者と論戦を繰り広げたりしたんですって。なんといってもブルーノは反アリストテレスの急先鋒でしたから、それはそれは大暴れしたらしい。ここでもブルーノの記憶術は大活躍。『自然学における比喩表現』という本を出したりしています。これは「記憶術を使って、アリストテレス自然学を記憶しよう!」という本だったらしいのですが「自然学を『比喩表現』化する記憶の体系とは、そもそもそれ自体が自然学の自己矛盾」(P.335)というわけで、皮肉めいた/挑発的な内容だった模様。
その後、パリを離れたブルーノはドイツ内を遍歴して、ヴィッテンベルクに落ち着きます。そこで何冊かの本を書いたそうですがイエイツは『三十の像の燈』(以後『像』)に注目します。これはブルーノの死後に公刊された未完の断片らしいのですが、ここには「イメージを通じて宇宙を理解する想像力の力」(P.335)が明示されている、とイエイツは言います。そこではアポロンやサトゥルヌス、プロメテウスといった神話的な像へと宇宙の諸々を形象化しています。でもこの方法って割と普通じゃないか? と思われるかもしれません。通常、神話というのは古代人が秘法を隠すために練り上げた、と考えられます。しかし、ブルーノは逆に秘法をいっそう理解し記憶するために、神話を使うというのです。それどころか、彼はすでにある神話を素材として用い「神話の中から真の原始の哲学を引き出し、それを復活させた」(P.337)と考えます。そして、この像を作ることは「神像を造りそれらを通じて天空の神聖な叡智を地上に誘い込むことを心得ていたエジプト人」(P.338)の手法なのです。以上のことから、『像』には記憶術、原始の哲学、エジプト的手法の三重の力が加わっている、とイエイツは言います。
ブルーノの記憶術に関する最後の著作は『イメージ、刻印、およびイデアの組み合わせについて』(以下、『イメージ』)という作品でした。これはイタリアへと帰国する直前に書かれたものだそうです。秘印の体系はますます深化し、より一層難解に、そして大がかりになっていくようにみえる。しかし、それらはこれまでに書かれた記憶術に関する著作の内容を丁寧に積み重ねていくとクリアに、ブルーノの宇宙観が見えてくるだろう、とイエイツは考えているようです。難解だけれども、ブルーノのイメージ-記憶論がもっとも明瞭になっているのが『イメージ』という作品である、とも言います。ブルーノの宇宙観についてはこれまでも言及してきましたので、ここでは詳細を省きますが、無数の百科全書的なイメージによって世界の無限を理解する、という世界観はやっぱり壮大で面白い。『存在の大いなる連鎖』*1に出てくる言葉を使うと、ブルーノも「充満系」の思想家のように思われます。クザーヌスなんかも「充満系」の思想家だと思います。私の目には、どちらも目指しているところは「充満の原理と〈私〉との一体化」のようにも思える。その方法のひとつがブルーノでは記憶術なのです。
(続く)