集英社「ラテンアメリカの文学」シリーズを読む#1 ボルヘス『伝奇集』
先日、インターネットで古本情報を検索していたところ、集英社の「ラテンアメリカの文学」シリーズ全18巻が手ごろなお値段で売っていたのに出会ってしまい、引越し前かつ金欠*1にも関わらず、購入に至ってしまった私です。でも、出会ってしまったんだから仕方ないよねぇ……と自分を納得させて、律儀に一冊目のボルヘスから読んでいます。『伝奇集』。岩波文庫から鼓直訳でも出ていますが、こちらは篠田一士の訳。篠田訳のほうが、現代語っぽい印象がありました。収録作品も微妙に違っている。この版だと『伝奇集』、『エル・アレフ』、『汚辱の世界史』が入っています。これらの収録作品は以下の本でも読めます(訳者はバラバラ)。
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篠田訳の『エル・アレフ』だけが、この本でしか読めない……はず*2。まぁ、そんなにこだわりはないですが。巻末の訳者解説は結構おもしろかったです。「十九世紀の小説をある程度読み、それを理解してからでないと、二十世紀の小説なんかはわかるはずもないなどという、迂遠な教条主義は、いまの若い読者にはないようだ。これこそ、文学作品の本当の読み方で、つまらないエセ歴史主義の虜になって、小説を読んだところで、なにが獲得できるというのだろうか」だそうです。
『伝奇集』は結構、自分で小説を書くときに露骨にパクったりしているので、手元においてパラパラめくったりすることが多かったのですが、久しぶりにガッツリと読みました。そこでふと思ったのは、ボルヘスの描くイメージというのは、ほかのラテンアメリカの作家と比べるとちょっと違った位置にいる、ということです。「ラテンアメリカの作家はイメージが豊かだよね」と先日、ある人がコメントしていて、なるほど、と感じたことがあったのですけれど、それはガルシア=マルケスやリョサには言えることかもしれないが、ボルヘスにはちょっと当てはまらないのかもしれない、と思うのです。ガルシア=マルケスやリョサの想像力がイメージを豊かに、具体的に描くのに対して、ボルヘスのイメージは具体的な形をもたない。つねに抽象的であり、形を持つことを拒否するかのようにさえ感じられます。もっとも、《時間》や《無限》といった形を持たないものについて書いているので当たり前なのかもしれませんが。
ボルヘスの作品がもつ「わけがわからない感じ」とはひとえにこの抽象性に所以しているといえるでしょう。《無限の迷宮》といったモティーフを彼はよく作品のなかで用いているのですが、文章自体が迷宮的であり、まさに迷宮について書かれた迷宮のような作品といった態をなしています。そこで、ボルヘスの作品を「わけわかんねーな!(ゲラゲラ)」という感じで楽しむのもありなのですが、さまざまな哲学の古典的著作物に触れたあとで読んでみると、少しは彼が何を書こうとしていたのかわかるようになる、と思う。ショーペンハウアーへの言及が多いので、ちょっと興味を持って読んでみようかとも思いました。ボルヘス先生は、図書館に勤めて読書と執筆を仕事にしていた、という知識大好きな変態野郎なので、私のような凡夫では彼の大海のごとき知識に及ぶことなど、死ぬまで適いませんでしょうが。それでも最近読んだジョルダーノ・ブルーノの著作*3は、とっかかりになってくれたように思います。
ボルヘスが《無限》について書いた作品のなかで、傑作だと思うのはこの本にも収録されている『アレフ』という作品です。この「アレフ」という言葉、カバラでは「無限にして純粋な神性」、集合論の世界だと「全体は各部分に全く等しいという超限数」なんだとか。タイトルが即ちテーマとなっているのですね。作品の主人公はボルヘス自身で、頭がおかしーんじゃねーか、と噂される男が住む館の地下で「あらゆる角度から見た世界中の場所が、まじり合うことなく存在する場所」=《アレフ》に出会ってしまう……というお話。ボルヘスは「ホントかよ?」とか思いながら、地下室に向かうんだけれど、ホントに出会ってしまう。そこでボルヘスは次のように語る。
今や、この物語の名状しがたい核心に達した。そしてここに、わたしの作家としての絶望がはじまる。あらゆる言語は、対話者がある過去を共有すると想定した上で行使する符号のアルファベットである。とすれば、わたしの小心な記憶がほとんど包摂し得ない無限の《アレフ》を、どうすれば他人に伝えられるだろう?
そりゃあんた作家なんだから頑張ってよ……とか思わなくもないですが、頑張った結果、彼は彼が《アレフ》のなかに見たものをただひたすら列挙していく羽目に陥ってしまうのです。そこで無数のイメージが乱反射する。でも、《アレフ》は無限だし、ボルヘスも無限のものをみてしまったから、それらのリスト化はあくまで限定的なものに過ぎない。語りつくせてしまうのであれば、それは無限ではないのですから――と、こうして書いてしまうと大した話ではない気がしてきましたが、無数のイメージが読み手のなかに呼び起こす捉えどころのない感覚が、《無限》の本質を表すのです。
あと、今回はこういった知的遊戯のような作品ばかりではなく、ボルヘスは、男っぽいガウチョ小説もたくさん書いているんだなぁ、とも思いました。そういうのを気にして読んでいると、意外に数がある。酒場で、タンゴで、何かあったらすぐナイフで決闘! というマッチョな世界のなかに潜む落とし穴的ホラーみたいな作品が多くて、面白いです。