sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

夢の書物

 飛行機は成田を離れ、私はベーリング海峡の上空を飛んだ。北極圏近くを飛ぶこの航路は、およそ九時間で日本とフィンランドを結ぶ。日本からフランスまでが十二時間程度かかるのと比べれば、飛行時間は三時間ちかく短い。このことからフィンランドは日本からもっとも近いヨーロッパと言われている。メルカトル図法で描かれた平面の世界地図でばかり、地球を認識している我々には意外なことに思えるが、事実としてそのようになっている――ということが、客室の各座席のうえに置かれていたフィンランド航空のパンフレットに書いてあった。それは、なかなか興味深い読み物だった。そこには私の知らないフィンランドの風土や、文化、食事のことが事細かに書かれていた。「フィンランド、と言えば、寒い国、夏でもひんやりとした常冬のような国を想像される方もなかにはいらっしゃいます。しかし、それは間違いで、フィンランドにも素敵な夏はやってきます。とはいえ、夏の平均気温は二〇℃前後。この快適な空気を求めて、ヨーロッパ各地からやってくる観光客は絶えません」。この文章の脇には、(おそらく)スペイン人のサングラスを女性が、野原にシートを敷いて、日光浴をしている姿を映した写真が載せられていた。女性の胸元は汗かオイルかで輝いていて、とてもセクシーだ。
 隣に座っていたのは、背が低く、「ユニセフ提供による紛争で食べ物が手に入れられない国の孤児の写真」を想起させるほど痩せた、五十歳ぐらいのアジア系の男だった。顔にはたくさんの皺があり、頬骨が張っていて、頭には髪の毛が一本も無かった。最初にその男を見たとき、どことなく、即身仏とか、そういう風になるための極限的な修行をしている僧侶のような感じがしたが、実際に彼はネパール人の元僧侶だったので私は驚かされた。何がきっかけとなったのかは覚えていないのだが(おそらく偶然に眼があった、とかそういうことだろう)、彼と私はお互いにあまり上手くない英語で、不器用に会話をした。「フィンランドには仕事で?」と彼は訊ねた。「大体仕事のようなものです。あなたも? 日本に来たのも仕事ですか?」と私は言った。
「私も仕事です。仕事でいろいろな国にいかなくてはならないのです」
「そうですか。お忙しいのですね。ところで、どういった仕事を?」
 彼は私の質問を受けると、しばらく目をキョロキョロとさせながら、言葉を選んでいるような顔をした。
「それが、あまり人に言えるような仕事ではないのです。気にしないでください」
 彼はそう言うと、大きなあくびをし、手の前で手のひらをヒラヒラと泳がせ(どうやらそれが彼の国で眠くなったことを伝えるジェスチャーらしい)、そしてシートに深く体をあずけ目を瞑ってしまった。眠っている、あるいは眠ろうとしている彼の姿はとても静かだった。彼が呼吸をしているかどうかすらも、私には判断ができなかった。かつての彼は、このような静けさで禅を組み、瞑想に耽っていたのだろうか。そんなことを考えているうちに私のほうも眠くなってきた。


 続きは、『UMA-SHIKA』第2号で!


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