sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

アサイラム

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 眠れぬ夜に鮭は裸足で外を歩き回りながら、今から約二〇年も前に彼が小説家を目指していた頃気まぐれに書いた詩を朗読し、街灯の下では今でもあの夏の思い出が忘れられないという乾ききったサラリーマンが細かく切った新聞紙のなかに体をうずもらせている。それが私の家の窓から見える夜の風景であり、救いようがない日常を暗示した、ささやかな小劇場だった。カーテンを閉めても、その光景ははっきりと映画館のスクリーンのように布地に映し出され、そして、私たちは沈黙を埋めるようにしてひっきりなしに煙草の煙を吐き出しながら、揺れ動く影を眺めて過ごしたものだった。眠れぬ夜に鮭が読み聞かせてくれる詩を引用しよう。私は、その内容を一字一句覚えている。今では思い出すことができない女の顔と引き換えに、記憶へと正確に刻み込んだのだ。

それぞれお同じ顔をしたこどもたちが父親の前にまとわりつくと
いっせいに同じ質問を投げかけた
「おとうさん、土星の輪はなにでできているの?」
父親は自動販売機であらかじめ気の抜けたペプシ・コーラを
買っているところだったのに
そのような質問を投げかけられたものだから 少し辟易し
そして 彼らが生まれてくる前に 彼らの母親と観にいったプラネタリウム
のことを思い出しながら 答えた
「時速四〇万キロメートルの速さで回り続ける虎が
あっという間にバターになってしまうことを君たちは知っているね?
あの輪はバターになってしまった虎なんだ」

 鮭がこの詩を読むたびに、サラリーマンは細かく刻まれた新聞紙のなかからパチパチと小さな拍手を送った。そして、彼は「ヨッ、大統領……」と今にも消え入りそうな声で合いの手をいれるのだ。それを聞いた女が「日本に大統領なんていないじゃない」と冷め切った声で言う、その温度だけをかすかに私は覚えているのだが、一向にして女の顔を思い出すことはできない。時は二〇七四年四月十四日、あの瞬間、凶悪な光が世界を包み、すべての魚たちが肺呼吸をし始め、胸びれがあった場所からまるで哺乳類のような足が生えはじめた時から、すべては変わってしまい、彼女は、この部屋から去ったのだった。
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