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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

勝間和代十夜 外伝《バベルの勝間和代》

イダルゴ神父の報告書


 事件はサン・エテルホ町の日曜の市場から始まった。イダルゴ神父はその日の午前、教会に集まったサン・エテルホ町の愚直な農民たちにイエスの教えを授けた後に、ロドリゴという名の運転手に車を走らせ、日用品を買いに町へと出ていた。その日、イダルゴ神父が文房具屋の前で車を止めさせ、切れかけていた万年筆のインクを選んでいると(とは言っても、サン・エテルホ町に入荷してくるインクに人を迷わせるだけの種類があるわけではないのだが)、顔見知りの農民の女が何人か集まって賑やかに話しているのが目に入った。


 「こんにちは」とイダルゴ神父は、学のないサン・エテルホ町の人々が自分に恐れを抱かないように、と研究を重ねた笑顔を持って女たちに話しかけた。三年前にイダルゴ神父がスペインからやってきたときは、町の人々はイダルゴ神父の肌の白さを見て「まるで悪魔だ!」と怯えたものだが、今となっては町の人々も白人の肌の色に見慣れたのか、気軽に挨拶をしてくれるようになっていた。しかし、この日は少々様子が違っていた。声をかけられた女たちは、イダルゴ神父に気がつくと、さきほどまでの楽しそうな雰囲気をさっと隠すようにしてひそひそと話し始めたのだった。それはあからさまに隠し事をしている様子だった。それを見て、イダルゴ神父はよっぽど「隠し事は罪悪であるのだぞ、神はすべてをお見通しでおられるのだぞ」と言いたかったが、町の人々を脅すような真似をしてはなるまい、と思い直し、インクを一ダース買った後に外で自分を待つ車へと戻った。


「さっき、店の前で女たちがしきりに『カツマ』『カツマ』と言っていたが、一体何のことだろう」教会へと戻る車中で、イダルゴ神父は運転手ロドリゴに尋ねた。
「神父さま、しらねぇんですかい? こないだ、この町からずっといった森のなかで、町の若いモンがしらねぇ部族のやつらと出くわしたそうで。まぁ、それから、町のなかはそいつらの噂で盛り上がってるってわけですわ。『カツマ』ってのは、そいつらのことでございましょう」
 

 それを聞いたイダルゴ神父は、教会に戻りすぐさま「冒険」の準備をさせた。なにしろ、彼がわざわざスペインから長い船旅を経て、この新大陸へとやってきたのは、ひとりでも多くのキリスト教徒を増やし、迷える子羊を救え、との命があったからである。自分の管轄地域にそのような未開人がいると聞いた途端に、イダルゴ神父の胸にはイエズス会宣教師としての情熱が沸きあがっていたのだった。


 こうして月曜日の朝には、旅立ちの用意がすっかり整っていた。イダルゴ神父が用意させたのは、三頭のラバとその背中につける大きな袋である。その袋のなかには、干し肉や缶詰などの一週間分の食料のほかに、いざというときのためのピストルや、カツマ族の者へ「お土産」として渡す、なんでも思い通りに削れてしまうツヴィリング製のナイフや(女性向けの)貝殻の首飾りや、ガラクタのような装飾品などがいっぱいに詰まっていた。とくにガラクタのような装飾品はこういった未開の部族のこどもや女たちに喜ばれることが多いことをイダルゴ神父は知っていたので、よく吟味して袋の中にいれた。


 イダルゴ神父一行は、三日間ジャングルのなかをさまよった。イダルゴ神父はその「冒険」に、運転手のロドリゴのほか、ラバの扱いが上手いペペという青年、それから料理人のドミンゴを連れていたが、三人ともジャングルにはなかなか苦戦しているようだった。サン・ヘテルホの町が開かれて、まだ百年も経っていないが、彼らは彼らの先祖が昔ジャングルのなかで生活をしていた部族の一員であったことをこれっぽっちも受け継いでいないようだった。一行のなかで一番元気だったのは、イダルゴ神父だった。しきりに頭を掠めるうっとおしい木の枝にも、一晩で三十箇所は血を吸いにくる蚊の群れにも負けず、三人の「現地人」たちを励まし続けた。苦難においてこそ、燃える。それがイダルゴ神父の性格だったのである。


 「神父さまぁ、神父さまぁ!! 」四日目の朝に、ラバの扱いが上手いペペが叫ぶ声で、ロドリゴドミンゴ、イダルゴ神父の三人は目を覚ました。三人は寝床から飛び起き、枕元にあったピストルをもって、すぐさまテントの外に出た。するとテントのまわりを、顔を赤や緑の泥で塗った色の黒い男たちが七人、開いた右の手のひらをこちらに見せるような奇妙なポーズをとり、むっつりとした面持ちで取り囲んでいた。ペペは朝方、小便にでも起きたところに偶然、彼らに出くわしてしまったのだろう。足をガタガタと震わせながら、自分がとるべき行動を支持してもらいたいばかりに、おびえる目でイダルゴ神父の目を見た。


 しかし、イダルゴ神父は落ち着いていた。
「彼らがカツマ族の者たちか? 」
 イダルゴ神父はそうロドリゴに訊ねると、ロドリゴは「たぶん、そうですだ。神父様」と言う。そこでイダルゴ神父は一番年上のドミンゴに、どうにか彼らと話し合いをもてないだろうか、と提案した。ドミンゴはこれに対して「やってみますだ、神父様」と言った。ドミンゴはこのあたりの部族の言葉を、ひとしきり知っていたのだ。しかし、彼がさまざまな言葉でカツマ族の男たちに話しかけても、男たちは一向にポーズと表情を崩さなかった。


「神父様、どうやらこいつら、相当気が立っているみてぇですだ。言葉も通じねぇみたいですし、オイラたちはここで一発ドンパチやるしかねぇんじゃないですか? 」とドミンゴは言った。
 イダルゴ神父はそれを聞いて、ひとしきり悩んだ。こちらにはピストルがあり、あちらはどうやら武器を持っているわけではないようだ。ここで銃を使ってしまっては、彼らに対してあまりに一方的な攻撃を与えてしまうことにならないだろうか? それを神はお許しになるだろうか? ――いや……。イダルゴ神父がそう思案しているうちに、ドミンゴロドリゴはもうやる気になっていた様子だった。


 だが、それより先に動いたのはラバの扱いが上手いペペだった。相変わらず足をガクガクと振るわせたままだったが、ペペは何を思ったのか、彼はカツマ族と同じように、右の手のひらを相手に差し出すようなポーズをとり、そしてむっつりとしかめ面をはじめた。
「ウィンウィン」
 その瞬間、さきほどまで無言であったカツマ族の男がひとり、奇妙な声を出した。
「ウィンウィン」
「ウィンウィン」
「ウィンウィン」
 それに続き、回りの男たちもまた同じように声をあげる。ウィンウィン…ウィンウィン……ウィンウィン……。男たちの声がジャングルのなかにこだまする。
「なにが起こったのだ? 」とイダルゴ神父はドミンゴに尋ねた。
「あっしにもなにがなんだか……」
 ドミンゴは急に力が抜けたようにそういうだけだった。


「神父様、こいつら、どうやらこっちを敵じゃない、と認めてくれたみたいです」
 困惑する一行にそう伝えたのはラバの扱いが上手いペペだった。たしかに男たちの顔を見回すと、さきほどよりもずっと温和なものになっている。こちら側に差し出されていた左手は、すでに下ろされていて、もはやあの奇妙なポーズも存在しなかった。イダルゴ神父はそこで、自分たちが彼らに受け入れられたことを察した。ドミンゴロドリゴも同じ様子だった。「ウィンウィン」。気がつくとイダルゴ神父もその意味不明なリフレインを繰り返していた。


 こうしてカツマ族は、イダルゴ神父たちによって発見され、サン・エテルホの町と交流を持つことになった。当初カツマ族とサン・エテルホの人々のあいだで言葉が通じなかったことで、いくつかの困ったことが起きたが、数年の後、カツマ族の若者の間にもスペイン語を喋る者が出てきたことで問題は解決された。その青年は、イダルゴ神父にカツマ族に伝わる伝説を話して聞かせた。


 あるとき、川のほとりでひとりの若者が釣りをしていると、見慣れないものが岸辺に打ち上げられていることに気がついた。それは本当に見慣れないものだった。手で簡単にちぎることができ、パラパラとめくることができる。俺はたぶんそいつを神父様がもっている「本」というもののことだと思うが、そのときの俺たちにはわからなかった。そいつには、人らしいものの姿が写っていた。それを俺たちは「写真」というものであることを知っている。でも、そのときは知らなかったんだ。当時の長老は、そいつのことを「きっと神様にちがいない」と思った。その人らしいものの姿は、右の手のひらを俺たちに見せるようにして、むっつりとした顔をしていたんだ。長老はそれを見て、神様はきっと怒っていらっしゃるのだ。だから最近、ヌンボ(これはベトベトオオイボイノシシを示す彼らの言葉である)を狩ることができないのだ、と言って、そいつを祭壇に祀った。それから、というもの俺たちは、雨が降った後にはいつもヌンボを見つけることができた。俺たちの部族は、そういうわけで、ことあるごとにあのポーズをするようになったわけさ。


「『ウィンウィン』とは一体なんのことだね? 」
 イダルゴ神父は、青年に訊ねた。青年は「俺たちの、神様への感謝の言葉さ」と答えた。このときイダルゴ神父は青年に、その発音が正しくは「ウ・ィンウィ・ン」であることを教えられた(これを逐語訳すると「ウ(我らが)ィンウィ(神に)ン(感謝する)」ということになる)。イダルゴ神父と、カツマ族の出会いについても、互いに敵対するものではなかった、ということを知って感謝したのだろう、とも青年は言った。


 さらに数十年後、死期を悟ったイダルゴ神父はこの話を手紙にしたためて、ローマに送った。ある日、偶然にもこの手紙を読んだ日本人の神父が「数十年前に『新しい年収十倍の方法を見つける旅に出る』と書き残して出奔した、勝間和代の痕跡がサン・ヘテルホにあるのではないか」と主張したが、もはやそれは確かめようのない話だった。カツマ族が住んでいたジャングルは当の昔に切り開かれてしまったし、カツマ族の人々もかつてのような風習を続けてはいなかったのだから。

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