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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

上野修『スピノザの世界――神あるいは自然』

スピノザの世界―神あるいは自然
上野 修
講談社
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 このスピノザ入門本。思想系の本を読んでいるとまれにスピノザの名前が出てくることがあり、いつか読もうと思っていたのだが、これはかなり面白かった。「スピノザは、ほとんど困惑させるほどまでにミニマリストなのである。(中略)ごちゃごちゃ言わず、ただ、できるだけ速やかに事物自身の語りに到達する(P.10)」だとか「いま・ここにある世界は必然的であって、現にいま・ここにそうなっているのだから、それ以外にはありえなかった」だとか、まるでアドルノと正反対だなぁ……と思う。
 アドルノほど「ごちゃごちゃ言って、事物自身の語りに到達しない(そして事物自身は語らない)」スタイルの思想家はいなかったろうし、アドルノほど「いま・ここでそうならなかった可能性」に過敏だった者もいなかった。アドルノは『否定弁証法講義』において<偽ナルモノハソレ自身ト真ナルモノノ指標デアル>と述べる。これはスピノザの出した命題を逆にしたものだ。だが、アドルノスピノザの思考がまったく相容れないものか、というとそうでもない――というかスピノザの用語を用いて、アドルノの音楽論を説明すると個人的には結構しっくり来てしまうところがある。同じように、デリダの用語を用いて、アドルノの音楽論を説明することもできるのだが、こちらよりも上手く馴染む気がする。
 スピノザの言う実体(無限の存在)と様態(実体を限定したもの)の関係性と、アドルノの楽譜(書かれたもの)と演奏(書かれたものを限定したもの)の関係性は上手い具合にマッピングできる気がする。楽譜はいかようにも読むことが可能である。そこには無限の可能性が存在する。演奏とはその無限の可能性の一部を切り取って、現実に鳴る音にする行為に過ぎない。このとき、切取られなかった部分については捨て置かれることとなる。楽譜=演奏という結合は、不可能である。楽譜はすべての属性を持つが、演奏は楽譜が持つ属性の一部しかもたない。楽譜という全体があり、演奏という部分がある(演奏のなかに楽譜があるのではない)。以上の図式は、そのまま音楽と批評の関係性にも当てはめることが可能である。音楽のなかから、意味を探ろうとする批評は、音楽のなかから一部の属性を切取る行為に過ぎず、音楽と批評は一致しない。アドルノにはつねにこの同一となることへの断念がある。なので、偽りの同一性を厳しく批判していた。
 かなりとっちらかったメモ書きみたいになってしまったが、会社に行く時間なので、ここでおしまい。最近はまたアドルノについて少し考えています。全然、本の内容に触れられなかったので最後に、スピノザはどんなことを言っているか紹介しておくと……。

己が努力、行動を起こさずに対象となる人間の弱味を口であげつらって、自分のレベルまで下げる行為、これを嫉妬と云うんです。一緒になって同意してくれる仲間がいれば更に自分は安定する。本来ならば相手に並び、抜くための行動、生活を送ればそれで解決するんだ。しかし人間はなかなかそれができない。嫉妬している方が楽だからな。芸人なんぞそういう輩の固まりみたいなもんだ。だがそんなことで状況は何も変わらない。よく覚えておけ。現実は正解なんだ。時代が悪いの、世の中がおかしいと云ったところで仕方ない。現実は事実だ。

 以上は立川談志が弟子の立川談春に語った言葉だが、大体スピノザも同じことを言ってる、と思う。つまり談志はスピノザなのだ。たぶん。