sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

 桃畑のちょうどまんなかに広場のような場所には、葉脈が全体に力強く広がった緑葉と細やかな繊毛に覆われたツルが絡み合って生える南瓜のための場所があり、そこにくれば畑に面した道路からは自分の姿が容易には見えない。ハツイは桃畑でなにか作業をしている間に尿意を催すと、そこまで歩いてからズボンを下ろし、しゃがみ込んで用を足した。それはこの家に来てから52年間、当然のように繰返してきた行為であり、娘や孫に何を言われようが恥ずかしくもなんともないとハツイは考えていた。前の日に大雨が降ったので桃の様子が心配だ。そう思って畑まで様子を見に来たその日も同じようにして用を足した。腰を下ろし視線が地面にほど近いところまでくると、短く刈り揃えられた雑草の合間から湿った土の匂いがする。雨が降った次の日はその匂いがより一層強くなり、くしゃみがでそうになる。それを我慢しながら用を足した後、家から畑まで乗ってきた自転車を止めたところまで戻る間にハツイが考えていたのは、最近出来たひとりの「弟子」のことだった。そういえば、このところ姿を見せない。どうしたのだろうか。自転車にまたがった瞬間、自分がその弟子のことを東京に出て働き始めた孫と同じぐらい考えていることにハツイは気が付いた。まったく、80歳を目前にして初めて弟子ができるとは思わなかった、とペダルを漕ぎながらハツイは思う。1ヵ月ほど前に孫と娘に選んでもらった電動アシスト付自転車の漕ぎ心地は軽やかで、畑と家の間にある長い坂も楽に登りきれる。52年間、生活を共にしてきた夫が病に倒れてからというもの、娘婿が力がいる仕事をすべてやってくれるようになったが、普段こうして畑を守るのはハツイ1人の仕事になっていた。それまではずっと夫と一緒に仕事をしてきたのに。弟子が出来てから変ったのは、作業の合間の話し相手が再び出来たことだ。自分は寂しかったのか?――坂のなかほどまで来たところでハツイは自問した。すると白い塗装の剥げた部分が茶色く錆付いた中古の軽トラックが坂を下りてくるのに気が付く。首にタオルを巻いた運転手は自分に向けて手を振り、近くまで来ると車を路肩に止めた。「いやあ、あづいない」。窓から身を乗り出した運転手から声がかかると、ホウホ、とハツイは笑い「あづいぃ」と言ってかけられた言葉をそのまま返す。「ハツイ先生、なにしてきたんだい」。「いやあ、昨日うんと雨降ったべえ。だがら、桃落ぢでねがど思って見ぃさきたんだ」。「それは大変だない。いづから獲りはじめんだい?」。「あど2週間ぐらいしたらだべな。あんだは何だい」。「オラは、は、たまねぎの畑見さきた」。「んがい」。こうして他愛もない会話を繰返すと「んじゃない」と言って、運転手はハンドルを握りなおし軽トラックを発進させて去っていった。荷台には何ものっていない軽トラックの後姿を見送りながら、ハツイは自分の弟子が半年もしないうちに随分と農家の男らしい口のきき方をするようになった、と歓心し、自分も自転車を漕ぎにかかる。気のせいかさっきよりもペダルが軽いような気がし、ハツイは汗もかかずに坂を登りきった。


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 その男に初めて声をかけられたのは、まだ桃の木が葉を一枚もつけていない冬と春の境目の季節の出来事で、そのときもハツイは1人で畑の様子を見に来、そしてちょうど畑の中心にあった例の場所で用を足しているところだった。山から吹いてくる風が露になった臀部にあたって冷たいのを感じているときに、ハツイは道路のほうで誰かが声をあげているのに気が付いた。誰か知り合いがきたのだろうかとハツイは思い、急いで腰をあげてズボンをあげなおすと70歳を過ぎてから急に遠くなった耳で声の持ち主が誰か判別しようとした。しかし、それが誰かはわからない――どうやら知らない人のようだった。声のするほうへと近づいていくと、スポーツ・キャップをかぶった色の白い男が立っている(やはり知らない人間だった)。歳は60歳を過ぎたぐらいだろうか。このあたりに住んでいるその年代の者であればハツイは大体は見知っているし、その男は農家の男にも見えなかった。農家の男は、夏に日光を浴びすぎるせいで寒い冬であっても常夏の国の漁師と同じ肌の色を持っているのだ。それにこの男は身なりが綺麗過ぎた。大方、畑の先にあった霊園に墓参りに来た物好きな人が声をかけてきたのだろう、とハツイは推測した。「すいません、ちょっとお聞きしたいんですが」と男は言って、背負っていた黒いリュックサックのなかからおもむろにプラスティック製の容器を取り出してハツイに示す。容器に貼られたラベルには「アルファロメール」と白抜きの文字で書かれていて、それが冬の季節に土壌にまいておくと雑草が生えにくくなる農薬であることがハツイには分かった。しかし、どうしてこんな農家には見えない男が農薬を持ち歩いているのかまでは分からなかった――それもアルファロメールは土壌を汚してしまう恐れがあるという理由で、随分前に誰も使わなくなった農薬だったのだ。「この薬はいつごろまいたら良いんですかね?」。虚をつかれた気分でいるハツイを前にして男は言葉を繋ぐ。まくだって?ハツイには男の意図がますます上手く掴めなくなり、思わず「あんだ、なにしさここに来たんだい?」と男に訊ねた。すると男はハッとした様子になり「これは失礼しました」と一言言って、照れているのか申し訳ない気持ちでいるのかなのか、被っている帽子を脱いで頭をかいた。高田総一郎という名を名乗るその男は、今年になって40年以上勤めていた銀行を定年退職になり有り余った老後の時間を潰すため、このあたりに畑を借りて農家の真似事をはじめたのだが、これまで一度も農業などに手を出したことはなかったし、農協の組合員でもないから農薬の蒔き方も分からないのだ、とハツイに説明した。それを聞いてハツイは「それはなんだってない……」と目をぱちくりさせながら感嘆の言葉を漏らす。老後に畑を持つ人が都会では増えているという話をニュースで聞いたことがあったが、実際にそのような人物を見たのは初めてだったのである。「だげども、その農薬、どごで手にいっちきたんだい?」。ハツイは高田に言った。「これは、畑を貸してくれた紺野さんがくれたんです」と高田は答えたが、このあたりに住んでいる人間の苗字は「紺野」ばかりだったために、ハツイにはどこの「紺野さん」か分からない――第一、ハツイの苗字も紺野と言った。そうならば農薬の使い方ぐらい畑の貸主に訊ねれば良いだろう、とハツイは言ったが、高田は「忙しいみたいでなかなか話してくれないんですよね」と答えて困ったように乾いた笑いをみせた。そこでハツイは「そだ農薬、今ごろ、使ってる人いねよ。土が汚くなっちまうがら、そだの使わねんだで、今は」と呆れたように言った。その言葉に絶句した高田は手に持っていた農薬の容器を落とし、その表情は見る見るうちに青ざめていく。「どごの紺野だがわがんねげんちょ、物置にしまってあったのをくれらっちゃんだべえ。あんだ、その人に相手にされでねんじゃねがい?畑仕事っつのは、そだ六十もすぎですぐに始められるもんでねべ」。ハツイの言葉が高田へと追い討ちをかけた。高田の肩ががっくりと落ちると、しばらく2人の間には沈黙が訪れる。ハツイはうつむいたまま一言も話さなくなった高田の肩が小刻みに震えだしたのを認めた。泣いているのである。「なんだ、泣くごともあんめ」とハツイに言われた高田の震えはもっと激しくなった。高田が終いには嗚咽の声まで漏らして泣き続けるのを見ると、ハツイは自分が悪いことをしてしまったのではないかと後悔を始め、いたたまれない気持ちになる。「実は、私の話を聞いてくれたのは、あなたが初めてだったんです」。やっとのことで落ち着きを取り戻した高田は、真っ赤に染めた目でハツイを見据えて言った。「六十を過ぎてから畑を持つなんて考えが甘いと思われることは充分予想していました。でも私は本気なんです。もちろん、それで収入を得たいだなんて大それたことは思っていません。私は40年以上、銀行に勤めて毎日必死で頑張ってきました。ですが会社に勤めている間に気がついたんです。私は人生のなかで何かを作るような、何かを生み出すような仕事に一度も携わっていない、と。毎日毎日窓口に座る女性職員の指導や、お金を数える仕事ばかりです。このままずっと私はそんな仕事ばかりを続けていて良いのか、と私は思いました。ですが、そのときにはもう私には守るべき家族がいたのです。おいそれと仕事を変えることなんてできませんでした。だからずっと定年になるまで待っていたんです。畑を持って、何でも良い何かを作る。これが私の老後の夢だったんです」。高田の白くて細い体格からは予想できない情熱的な言葉がその口から流れるようにして出てくるのを、ハツイは黙って受け止めていた。ハツイは農家の家に生まれ、そして畑を持つ家に嫁いできた。だから、畑を耕すことに対してなんら特別な思いを持っていなかった。ハツイの目には、畑に憧れ続けてきたと言う高田の姿はますます珍妙なもののように映っていた。「ご迷惑かもしれませんが……私に畑のことをこれからも教えていただけないでしょうか?弟子にして欲しいのです」。高田はそう言って深々と頭を下げた。これにもハツイは驚かされたが、高田の願いを断るのも忍びない。「んがい。じゃ、わがんねごとあったら、なんでも聞いてくなんしょ」。ハツイはまだ頭を下げたままだった高田に声をかけた。顔をあげた高田の表情には、爛々とした喜びがある。高田の頬についた涙の筋を乾かしていく山から吹く風が温かみを持っていることにハツイはそこで気がついた。もうすぐ春がやってくるのである。


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 ハツイの持つ80年近い人生で培われた知恵と感覚は、ほんのささいなことであっても高田には山の大きさのようにも海の広さのようにも感じられた。ハツイの言葉のひとつひとつが高田にとって驚きだった。ハツイがこれまで自然なこと、当然なこと、気にしたことがなかったものについてひとつ教えてやるたびに、高田は目を丸くした――その反応がハツイにはどうにもおかしくてならなかった。そして、その驚きのひとつひとつを自分のなかに取り込もうと努めた。初めてハツイに高田が自分が借りた土地を見せ、「こだ畝じゃ、雨が来たらすぐ崩れっちまうべ」と言われ鍬の使い方を習った日は――そだごどじゃダメだあ。もっど、腰をグゥッといれでやんのよお――鍬に体重を乗せて土を起こす感覚を忘れないようにと日が暮れるまで作業に打ち込んだし、土のなかに小石が散らばっているのを指摘されるとポリバケツ何杯分もの小石を自分の手で拾って歩いた。初めのうちは体が慣れず、夜になってもうまく眠れないほど体が痛むのを高田は感じた。しかし、これが土にまみれるということなのであり、この筋肉や関節の痛みは自分が本当に土と生活を共にすることの証跡なのだ、と思うと、まだ折れていない高田の心の奥底で喜びが湧き、痛みがすぅっとひいていくような感覚がある。徐々に長くなっていく日照時間と比例するようにして、高田の肌は褐色へと染まり、勤めに出ていた頃の同僚が見たら遠めにはもはや自分と分からないだろう、と高田は思う。そしてそこで彼は、土と共に生きるということが自分も土に染まっていくことと同意義なのだ、と気がついた――そのことを妻に話すと、妻は大袈裟だという風に笑い、こう言った。「でも、あなた、前よりずっと逞しくなったわね。晃一郎が帰ってきたら驚くわよ。サッカー選手みたいな顔してるもの」。晃一郎は、六十を過ぎて畑仕事なんか始めた自分を笑うだろうか?「きっと喜ぶわ。そうだ、何か収穫できたら送ってあげなさいよ」。そうだな、きっとそうしよう――妻との会話の間、高田は乾いた土がなかに入り込んでとれなくなった自分の爪を眺めていた。