つかまえることのできぬ少年
信号機が青になったときにピャウ、ピャウと規則的に鳴る音が気に入らないのだ、と言ってアンは足元に落ちていた拳ほどの大きさの石を手に取ると、スピーカー目掛けてそれを投げて見せた。まるで自慢の肩を披露してやろうとでも言うかのように。彼の手を離れた石が見事にスピーカーへ直撃すると、それは一瞬火花を散らした後に、夏の終わりに萎れて佇むひまわりのような姿になり、ぶらぶらと支柱の上で揺れている。壊れたスピーカーはしばらく、ピャウ、ピャウという音を鳴らしていたが、次第に音高を低くしていき、音量はかぼそく弱まっていく。やがて、その音はプツリと途絶え、私とアンだけが立っている交差点の周囲には妙な静寂が訪れた――夜になって冷えた空気が、遠くの国道13号線を走る長距離トラックの走行音を伝えていく。「逃げろ!」。アンは自分がした迷惑ないたずらの目撃者が私以外に存在しなかったのを知っていたくせに、わざと大げさな口調でそう叫んで走りだした。彼が走る速さはほとんど飢えた野犬のようであり、彼と私との差は見る見るうちに大きくなった。そして、彼の姿は照明のない夜道のなかへと吸い込まれてしまった。結局、そのときも私はアンに追いつくことができなかった。2年前、私が大学生最後の夏の話だ。「お前は、本当に変らないよ」。昼間の熱を少しばかり残したアスファルトをとぼとぼと1人歩きながら、私は暗闇に向かって呟いた。
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アン。赤毛のアン。コロンビアからやって来た、赤毛と炒ったコーヒー豆の肌色を持つ転校生、村越・アントニオ・ホセ・カルロス・ブエンディーア・充の渾名が決められるのに大した時間はかからなかった。しかし、その名は当初、人気者に与えられる名誉ある名前ではなかった。日本語も不自由で、肌の色も違うアンは冷やかしの対象になったのだ。「やーい、くろんぼ!」、「男のくせに『赤毛のアン』!」、「ガイジン、ガイジン!」。自分を貶める言葉の意味を彼は充分に理解していたわけではなかったが、こどもの勘と言って良いのだろう、何か冷やかされれば半ば動物的に怒りを燃やし、握り拳を相手の顔面に叩きつけた。そして、アンは平穏極まりない田舎町の平野小学校4年生にして前人未到の記録、工業高校の不良生徒でも彼には及ばないであろう記録を達成してしまった。転校からわずか1週間で、彼に前歯を折られた児童は4名にもおよび、折られた前歯は数えて7本にも上ったのだ――それらすべてが乳歯であったことで、担任の先生と前歯が折られた児童の親はいくぶん救われたに違いない。南米の肥沃な大地を思わせるアンの手の甲には、大人になってからも歯を叩き折った瞬間にできた傷跡がくっきりと残り、その部分だけ周りよりも色素が薄くなっていた。「日本に来て初めてもらった不名誉の勲章だね、これは」。そのことを指摘すると彼はいつもそう言って、いたずらっぽい笑みで顔に花を咲かせた。
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アンはカリブ海を襲うハリケーンのような気性の激しさによって一躍、問題児としての注目を浴びることになった。しかし、その悪名がすなわち、彼が劣等生であることを意味していたわけではなかった――むしろ、彼の頭脳が極めて優秀なものだったからこそ、教師たちは一層困惑し、注目したのだろう。アンは日本に来てから1ヵ月もしないうちにどの児童よりも澱みのない標準語を身につけたし、テストの時間になれば誰よりも早く問題を解き終えて校庭へと駆け出した。窓の外を歩く野良猫を見つければスッと席を立って窓から脱走し、猫を追いかけていくような気まぐれさえなければ、教師たちも彼のことを愛さずにはいられなかっただろう。教科では特に理科が大好きで、フラスコに溜まった過酸化水素水に二酸化マンガンを入れたときにプツプツと湧いた泡をアンはいつまでも眺めていた。「僕の先祖にはどうやら高名な軍人と発明好きな自称、錬金術師がいたらしいんだ。僕はきっと、そのどちらの血も受け継いでしまったんだろうね」。あるとき、アンは教えてくれた。「その話が真実かどうかはわからないけれど」。アンは付け加えて言った。その伝説的革命指導者である男には17人ものこどもがいたから、彼の最初の母国であるコロンビアではその名を騙る人間がそれこそ山のようにいたのだそうだ。
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ロケットえんぴつ型の水鉄砲、一生カドが減らないが文字を消すこともできない消しゴム、紅白の2色だけではなく7種もの色に被りわけられる運動帽――現実には存在しないかもしれない祖先の自称、錬金術師の血が作用していたのか、アンは時折「発明品」を教室にもってくることがあった。それらは見事に私たちを魅了した。数ある彼の発明コレクションのなかでも傑作だったのは、コンセントに差し込むと教室内に特殊な電磁波を発生させ時計を5分だけ進められる(給食の時間が5分早くやってくる!)アースノーマットだ。このおかげで担任の先生がしなくてはならない日課のひとつに「放課後時計の時間を元通りにすること」が付け加えられることとなったが、教師たちの知らぬ間に、彼は私たちのヒーローとなっていたのである。赤毛のアン。いつしか、私たちはその名前を聴くだけで彼が次にどんな発明品で、どんな驚きを与えてくれるのだろうと目を輝かせるようになっていた。
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「ねぇ、アン。今日は何を作ってきたの?」
垂れてきた鼻水をいつも手の甲で拭ってしまうせいで、いつも鼻の下をカピカピに輝かせている毅が訊ねると、アンはランドセルのなかをゴソゴソと探る。そうやって新しい発明品を誰かに披露するときにアンの口元は笑みを含ませる――相手の驚く表情が楽しみでならないのだ。そして、毅の目の前に突き出されたのは8本のストロー笛だった。
「1本選んで適当に吹いてごらん」
アンに言われるがままに毅は1本の赤色をした笛を選び、その先端を噛むようにして口に含み息を吐く。すると、ストロー笛の単調な音色が放課後の教室に響き渡った。「笛の胴体に、いくつも穴が空いているだろう?それを指で塞いでごらん」。アンは毅に指示を与える。その指示通りに毅が穴を指で押さえると、ストロー笛の音高は低くなった。「今度は、適当に穴を塞いだり、離したり繰返してみて」。今度もアンから言われた通りにすると、不思議なことにさっきまで単調な持続音に過ぎなかった音が自然とメロディに変化して響くのに毅は目を丸くした。ビニール製のストローの音色は、ブラスバンドで使われている立派な楽器とは比べ物にならないほど貧相なものだったが、それでもその旋律は教室にいた私たちの耳を吸い込んでいくほどの魅力を持っていた。調子に乗った毅はまるで道化師のようにおどけながら笛を吹き続ける。リズム楽器のように足踏みをし、それにあわせて毅はほとんど自動的に生み出されていくメロディに愉楽の表情を浮かべ、次第にその愉楽は聴衆として佇んでいた私たちにも伝染していった。「それっ!それっ!」。やがて、誰かが掛け声をかけだし、教室はカーニバルのような様相を示し出した。その熱狂が漸く止んだのは、呼吸をするのも忘れて酸欠になった毅が顔色を青くしながら勢いよく床に倒れてからだ。
「この8本のストロー笛はね、それぞれ、8つの古い教会旋法が演奏できるように設計されているんだ。だから、適当に吹けば、勝手にメロディになってくれる。毅が選んだのは、ミクソリディア旋法の笛さ。この旋法は、人を楽しくさせる旋法だと言われている。今、君たちがお祭みたいな気分になったのもそのおかげだろうね。実験は大成功って感じかな。今は8本しかないけれど、これから僕は、8つの旋法ごとに12種類ずつの笛を作ろうと思っている。あわせて96本。そうすれば、たぶん、どんなときでも、誰でもこの笛で音楽を作ることができるようになると思うんだ」
うつぶせに倒れた毅をあおむけに直しながら、アンは私たちに説明するのだが、その説明は難解な呪文のようにしか聞こえない――口調はあの高慢ちきな杉原という音楽教師のそれよりもずっと優しく、そしてその澱みの無い日本語の流れは鳥のさえずりのような心地良さだったのにも関わらず、アンの説明を理解できた者は私たちのなかにひとりもいなかった。すると、アンはまだ意識が明瞭としない毅ときょとんとするばかりの私たちを残して、つむじ風を巻き起こす勢いで教室を駆け出て行った。
「あなたたち、何をしてるの!はやく帰りなさい!」
アンと入れ違いに入ってきたのは担任の先生である。
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アンの第1の父、ホアン・ホセ・カルロス・ブエンディーアの顔を私は知らない。おそらくは、アンと同様に炒ったコーヒー豆の肌色を持つ男だったのだろうが、アンが日本にやってくる、つまりはアンと私が出会う前に彼は死んでしまっていた――警察官だったホアン・ホセ・カルロスの肉体は、麻薬密輸組織エンゲ・バミヤージがパトカーに仕掛けた爆弾によって、バラバラにされてしまったのである。その悲劇的とも、日常的とも言える死は1990年のことだった。その後、アンの母、エメラルダ・グラサ・コスタ・ブエンディーアは5歳の息子を親戚に預け、働くために日本へ発った。そして、そこでアンの第2の父となる村越博之と出会うことになる。
この村越のおじさんのことを、私は知っている。それは彼がエメラルダおばさん(といっても、アンと私が出会ったときで32歳かそれぐらいだったから、このおばさんという呼び名は不適切なものだったかもしれない)と出会う前からの話で、村越のおじさんがやっていた村越板金塗装は私の家の近所にあり、自動車整備工だった父と親交があったのだ。
村越のおじさんは、とにかく人が良い性格だけがとりえというタイプの人間で、商売はあまり得意でなかったのだろう。錆付き、文字が消えかかった工場の看板は、廃工場と間違えられても仕方がなかったと思う。しかし、それでも先代の社長から受け継いだ工場を必死で守ろうとする村越のおじさんの姿を私は記憶している――工場の前を通りかかると、叩きだしの作業をする音をいつも耳にした。
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「僕もね、今度やっと結婚するんですよ」
我が家で夕飯を食べながら村越のおじさんがそう言ったとき、皆が彼を祝福した。とくに祖母は小さな目を輝かせながら「相手はどだ人だい?」と執拗に訊ねた――しかし、村越のおじさんはその問いになかなか答えようとしなかった。40歳を過ぎて初めて結婚する相手が肌の色の違う、しかも子連れの未亡人だと知られたら軽蔑されるにちがいない(田舎とはそういう土地なのだ)、そんな風に考えていたのかもしれない。実際、村越のおじさんがエメラルダおばさんを紹介しに我が家を訪れたとき、祖母の目の奥には明らかに冷ややかな態度が隠されていたと思う。エメラルダ、ト、イイマス。オセワニ、ナリマス――ひとつひとつ文節を区切りながら挨拶をするエメラルダおばさんは、きっと気付かなかっただろう。しかし、村越のおじさんには分かっていたに違いない。
それから彼が我が家で夕飯を食べることはなくなってしまった。
アンはそれからしばらくして、日本にいる母親と第2の父のもとへとコロンビアからやってきた。
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クラスのなかでアンと私の仲が特別良かったのはそういった事情もあったが、もっと大きな理由があったと私は思っている――アンは理科も好きだったが、音楽も好きだったのだ。12の音と8つの教会旋法に基づく96本のストロー笛を完成させたのは、ひとえにそうしたアンのニ面性のたまものだった。そして、私はそのとき、学年で唯一いる男子の吹奏楽部員だった。学校一の問題児であり人気者であったアンが、私に目をつけたのはそれが理由だったのではないだろうか。
ある日の放課後、アンは大きな黒いケースをもって私の家の玄関に現れた。そのケースに入っていたものは、アコーディオンだった。「音楽室の倉庫から盗んできたんだ。どうせ誰も使っていないんだし、誰も困らない」。アンはそう言って、自慢げにその鍵盤楽器を私に見せる。普段練習の前に埃っぽい音楽室の倉庫へと足を踏み入れる機会があったが、そこにこんなものが眠っていたことをそのときまで私は知らなかった。見たところ、とても古いもののようだ。楽器の右側についている白鍵が黄ばみ、プラスティックの本隊にはところどころひび割れがあった。
「それ、壊れてないの?」
私はアンに訊ねてみた。すると彼はフンとひとつ鼻を鳴らして、蛇腹を目一杯広げてアコーディオンを弾き始めた。
楽器の内部から金属のリードが振動する音が響き始める。それは、どこか遠くにある実際には存在しない故郷を思いを馳せさせる音色だった。そしてその旋律は、いままで聴いたことのないにも関わらず、どこか懐かしい思いに駆られるものだった。アンは右側の鍵盤と左側のボタンでせわしなく10本の指を踊らせながら、目を瞑り古い記憶を辿るような表情でいた。
「どう?壊れてないでしょ?」
「すごいや、アン。どこでそんなの覚えたの?」
アンがひとしきり曲を演奏し終えたとき、私は小さく拍手をしながら言った。
「僕の生まれた土地では、お祭になると楽隊がやってきてとっても賑やかな雰囲気になるんだ――僕のおじさんは、その楽隊のアコーディオン弾きでね。おじさんに昔少しだけ教わったんだ」
アンはおじさんに教わったというコロンビアの祭の音楽を他にも聴かせてくれた。アンの演奏はどれも「昔少しだけ教わった」というには見事過ぎるものに思われた。しかし私が「たくさん練習したんでしょ?」と聞いても、アンは「僕は練習が嫌いなんだ。おじさんに教えてもらっているとき以外に、楽器には触れたことがないよ」と言う。それを聞いてますます私は、この肌の色が違う友達が持つ輝かしい才能に敬服するような思いがした。
「そうだ!」
突然アンは発明家がなにか良いアイデアを閃いたときの声をあげて飛び上がった。
「僕とふたりで楽隊を組まない?マー(アンは私をそう呼んでいた)はシンバルが叩けるだろ?楽隊にはああいう大きな音が出る鳴り物が必要なんだ。ちょうど倉庫には鼓笛隊用の軽いやつがあったし」
話を持ちかけられた私のなかで、期待は大きく膨らんだ。そして早速次の日の放課後からたったふたりの音楽隊の活動がはじまった。
私たちは住んでいる小さな町の商店街を……誰もいなくなった校庭を……水が張った田圃に沿った畦道を……歩き回り演奏した。私たちの活動は多くの場合、こどもの酔狂なお遊びとして認識され、アコーディオンとシンバルの騒がしさは傍迷惑なものとして受け取られた。しかし、時には外から聞こえてくる音楽が気になって窓から顔を出したおばあさんが拍手とお菓子をくれることもあった。そういうことがあると、私とアンは「僕らの演奏へのギャラだね」と言い合い、均等に分けたお菓子を並んで座って食べた。
だが、その活動も長くは続かなかった――今考えれば当然のことだが、倉庫から勝手に楽器を持ち出していることが学校に露呈し、アコーディオンもシンバルも取り上げられてしまったのだ。その後、倉庫の鍵の管理は厳重になり、2度と楽隊が結成されることはなかった。そして、あれ以来、私が育った平野という町に南米の音楽が鳴り響いた日は来ていない。もう15年近く前の話で、当時の私たちの演奏を覚えている人間もいないだろう。音楽は空中へと吸い込まれるようにして消え、つかまえることができないものになってしまっている。
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小学校を卒業した私たちは、そのまま同じ中学校へと入学し、そして同じ地元の進学校へと進んだ。同じ道を歩んでいた、ということになるが、歩み方は見事に異なっていて努力しなければならない私と違って、アンはそんな形跡などひとつも残さずにすんなりとその学校に入っていたと思う。文系と理系の選択も違っていた。しかし、どこへ行ってもアンはトップクラスの成績を示していたから、違うクラスにいても噂は入ってきた。「8組に村越っているだろ?アイツ、この前の模擬試験全国で10番だったってよ」。そんな噂を聞くたびに、私は「アンはきっと東大とか京大とか、私の頭では入れない大学へ進むのだろう」と考えた。
しかし、アンは大学には行かなかった。アンに進学の意思がないと聞いた教師たちは慌て、熱心にアンを説得にかかり、私もそれに協力させられた。
「親父がさ、具合悪いんだよ。だから、家の仕事を手伝うことにしたんだわ。母さんも俺がいなくなったら寂しいだろうし」
アンは言った。その意思は結局変ることがなかった。
村越のおじさんが死んだと言う知らせを受けたのは、ちょうど私が東京の私大に通い始めたころだ。私が東京にいる間に、アンに関係する話が入ってくることはそれ以外にはなかったが、実家に戻るたび、アンとは必ず酒を飲んだ。この関係はずっと続くのだろう、と私はつい最近まで思っていた。道は途中で随分違ってしまったが、平等に同じ時間を進むことによって、私と彼は同じだけ歳をとっていく。そのように信じ込んでいたのは、あまりにもアンが昔と変らないままでいたからだろう。若くして家業を継いだことでずいぶん逞しく顔つきになっていったが、笑うとすぐに同い年の友達の顔に戻った。
「仕事はどう?大変じゃない?」
「大変だけど、ドン底って訳じゃない。親父が死ぬ前にやるべきことは全部教えてもらったし、ほら、俺って昔から手先器用だったろ?だから向いてると思うんだよな」
いつだったかアンはそう言って私を安心させた。
しかし、私が大学を卒業した年の夏にアンとは連絡がとれなくなった。彼の家を訊ねるとそこは空き家になっていて、小さな庭には雑草が生え放題になっていた。工場に赴くと看板が取り外された建物だけが残っていて、錆だらけのシャッターが降りていた。アンの行方は誰も知らなかった。
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アンがバーレーンで死んだと言うニュースは新聞記事にもなった。私がそれを読んだのは、アンの行方が分からなくなっていることを知ってから、ちょうど2ヶ月経った朝だ。今、手元にある記事のスクラップには、コロンビア生まれの日本国籍を持つ若い男性が遠い異国で死んだことについてこのように書かれている。
バーレーンで日本国籍の男性が射殺
14日未明、バーレーンの首都マナーマにて王宮に男が侵入し、持っていた自動小銃を乱射する騒ぎがあった。幸いけが人はでなかったが、男は宮廷警備隊に取り囲まれてもなお発砲を続け、説得にも応じなかったためやむなく射殺された。バーレーン当局の発表によれば、射殺された男が身につけていたパスポートから男を日本国籍の「村越・アントニオ・ホセ・カルロス・ブエンディーア・充」を容疑者として断定。遺体からは幻覚作用がある薬物が検出されたという。同国のハマド国王は事件当時、サウジアラビアとの経済会議に出席中で王宮にはいなかった。
この後、3週間ほどの間にアンについて語られた騒がしい言説の数々を私はここで紹介しない。週刊誌が真実として書きたてた文章の数々は、あまりにも現実とかけ離れたものだったからだ。不躾な記者が何人かどこで調べてきたのか、私にも電話をかけてきたことがある。「私は何も知りません」。彼らが投げかけてきた質問を私はすべてその言葉でかわした。そして事実、私は何も知らなかった。アン、お前は何のつもりであんな遠いところに行って、自分から死ぬようなことをしでかしたんだ?――答えるものがこの世に存在しないがゆえに問いだすことができない疑問は、今なお私の胸の中に留まり続けている。
アンの遺体は日本に引き渡されることなくバーレーンの法律によって裁かれ、そして煙となって中東の乾燥した空気のなかに消えた。