訪れ
飯坂町と茂庭町を繋ぐ国道399号沿いに道祖神を祀った祠がある。そこには交通と子孫繁栄というまったく相容れない2つの現世益を司る神を敬うために、男性器を象ったいくつもの御神体が天を向くようにして屹立していた。その「群れ」とでも言えそうな男性性の象徴的偶像の集合は極めて異様な光景であり、道行く観光客などが見れば思わず車を止めてじっくりと見入ってしまうような存在感を持っている。
群れの中心には一番大きく、小柄な女性の身の丈ほどもあろうかという朱塗りの御神体があり、通りがかりに見るたび、それはいつもてらてらと妖しく輝いていた。いまにも先端部から粘性の液体を活発な火山のように噴き上げそうな生命感を秘めた輝きである――どうやらそこを頻繁に訪れ、丁寧に磨きをかけている熱心な人物がいるようだった。
その周りには大小、形状、材質、さまざまなものが中心を守るようにして並んでいる。土産物屋のこけしぐらいのひかえめな大きさのものから、いつまでも朽ちないことが予想される大理石製のもの、威勢良く偉ぶる海軍将校のように反り返ったものまで、百数十に及ぶその群れは本当に多様である。おそらく、千人の男と寝た女であってもその種類の豊富さには驚きを隠しえないのではないだろうか。
まだ、山から吹く冷たく乾いた風が木々を揺らしている3月のある日、その祠の存在を私に初めて教えたのは祖父だった。桃の木の剪定をしている祖父のもとへ差し入れをするために自転車で坂を下り畑まで行った小学6年生の私は、まだ裸のままの桃の木の根元に祖父と並んで座り、一緒にオロナミンCを飲みながら話を聞いていた。
「このみぢをずっと行って、ダム作ってる茂庭のほうさいくど、チンポコの神様がいんだぞ、知ってっか?」
祖父は空になった瓶で茂庭へと続く道を指しながら、祖父は言った。日頃は無口で何の文句も言わない人物として知られていた祖父がなぜそんなことを私に語り始めたのかは分からない。ただ、私は秘密の儲け話でもするように語る祖父の様子に惹かれ、その猥談めいた神をこの目で見てみたい、と思った。人間の形象をとらない異形の神の姿を。「あぶねがら、1人で見さ行ぐなよお」と祖父は言った。しかし、私はそのとき既に「そういったもの」は1人で見るものだ、という確信をどこからか仕入れてきていたのだった。
次の休みに私は昼食を食べた後に、家族に行き先を告げず茂庭のほうへと自転車を走らせていた。しかし、出発してから30分もすると私は早くも後悔し始めていた。タオルと水筒それから銀紙に包まれた食べかけのチョコレートを詰めたナップザックを背負い込みながら出発した当初、ペダルを漕ぐ足に勢いをつけていた冒険めいた期待感は、漕いでも漕いでも続く傾斜と曲がりくねって見通しの悪い道によって削り取られてしまっていたのだ。クラクションを鳴らしながら幾台もの大型トラックが自分を追い抜いていくのも恐ろしかった。ウインドブレーカーの繊維を通して入ってくる山風は汗で濡れたTシャツを冷やしていく。
なぜ、こんなことを始めてしまったのだろう。やがて私は自分に対して腹立たしい気持ちになっていった。
ようやく道祖神を祀った祠へとたどり着いたのは、夕闇が忍び寄ってくる寸前のぎりぎりの時刻だった。そこには先客がいた――祠の前に車を止めた若いカップルがさまざまな形をした男性器の像を指差しながらにやにやとした笑いを浮かべているのだった。おそらくは、茂庭で建設中のダム工事の様子でも見に行くところで、その珍奇な祠を偶然目にしてしまったのだろう。彼らは疲れきった様子で祠のほうへと近づいていく私の姿を認めると、車に乗り込んでさっとその場から立ち去ってしまった。そうして私はそれら異形の神々の御神体とひとりきりで対峙することができるようになったわけだが、残念ながらそのとき、私の胸に湧き上がってきた感情は落胆に限りなく近い惨めなものだった。歩くたびに太ももが痺れるほどの重く身体へとのしかかってくる疲労の代償に、光に包まれるような宗教的体験を私はどこかで期待していたのだろう。しかし、現実のそれはあまりにも現実的に過ぎたのだった。
失意に落とし込まれた私は、形式的な参拝を終え、すぐさま元来た道を戻ろうと思った。すでに陽は山陰に隠れる寸前である。帰りはずっと下り坂で楽だとはいえ、夜の山道をひとりで行くことなど、考えるだけでぞっとした――気温はさっきよりも下がっている。ひょっとすると帰路のほうがつらいものになるかもしれない、いそがなければ、と私は思った。
ところがいざ乗ってきた自転車にまたがろうとした瞬間である。突如として腰が抜けるような感覚が下半身に訪れたのと同時に猛烈な眠気が津波のようにやってきたのだ。もはや私はその場から一歩も動くことができなくなってしまっていた。その場にベッドが用意されていたならば、服も着替えることなく倒れ込みたい。そのような強い欲求が後頭部から発信されているのが分かるほどの眠気だった。次第に私の意識は朦朧としはじめていった。ああ、いけない。そう思った時には既に遅く、私は荒れた山道のアスファルトに膝から崩れ落ちていた。ガードレールのさきにある渓谷から生暖かい風が強く吹き、自分の体がふわりと浮くような感覚を最後に私の意識は一旦そこで途絶えた。
気が付くと私は、あたり一面を薄い青色の小さな花をつけた植物に覆われた場所にいた。空中に目をやるとそこには太陽の姿はない――にも関わらず、あたりは清潔な病室のような明るさになっている。空気は温室のような柔らかさをまとった穏やかさである。何の夢を見ているのだろうか、と私は思ったが、夢にしては自由が聞きすぎ、意識もハッキリして過ぎていた――なにもかもが明瞭に聞こえ、見えてしまうのだ。そして、さきほどまで体に染みこんでいたはずの疲労もどこかに消え去ってしまっていた。
その不可思議な空間において、私はただ呆然とする他なかった。花畑(のようにみえる)地平は視界の果てまで続いた風景は、まるで終わりのない夢だった。しばらくすると地平線の向こう側から何かが近づいてくるのが目に入った。私はそのまま、それが何なのか認識できるようになるまで待つことにした。もしもそれがなにか恐ろしいものであるならば、それから逃げれば良い――といっても、その空間には逃げ隠れできそうな場所は用意されていなさそうだったが。
接近する物体は、どうやら人のようだった。はっきりとそれが確信できるには、もう少し時間がかかったが、そこでは五感は普段よりも鋭敏となっているはずなのに時間の感覚だけは曖昧で実際私はどれだけ待っていたのかは分からなかった。極端に言えば、それは一瞬のようにも感じたし、無限のようにも感じたのである。
「おやおや、お客さんかと思ったら、こどもではないか」
近づいてきた人物は、剃りあげられた頭に長い口髭と顎鬚を生やした老人であり、歴史の教科書の挿絵に載ったギリシャの哲学者のような服装をした彼は皺だらけの顔を微笑ませながら、私の姿を見るなりそう言った。しかし、その表情などから彼の年齢や素性のことを推測するのは困難であった。
「おじいさんは誰ですか?」
私は不可思議な空間に現れた不可思議な老人に訊ねた。
「私か。私は何を隠そう、道祖神。交通――移動、そして子孫繁栄――性交を司る神である」
老人は言った。とてもすぐには信じられない話だったが、私は彼を信じるしかなかった。「時々、お前のようにここへ迷い込んでくる者がいるのだ」。道祖神を名乗る老人は続けざまに言った。そして、私の不安そうな表情を読み取ったのか、彼は私が今いる場所について話し始めた。
「ここはすべてのはじまりの場所であり、終わりの場所である。あの方角を見よ、天に向かって青白い焔が昇っていくのが見えるだろう。今度はこちら側だ、逆に天から赤黒い炎が降りてくるのが見えるだろう。登っていくのはこれから現世へと生まれ行く霊魂の一行であり、降りてきたのはついさっき現世の肉体を離れた霊魂の一行だ。現世の人々は、ここを天国と呼んだり、高天原と呼んだりしたものだ。しかし、案ずるな、お前はまだ死んだわけではない。そんな不安な顔をするでない。すぐに現世へと送り返してやろう」
そう言って老人は、目を瞑り呪文のような言葉を唱え始めた。その調子はまるで詩吟の雄弁さであり、長く引き伸ばされた音節は耳にいつまでも残った――オトコガオンナノクビスジニシタヲハワセルトオンナノシゲミノオクハシメツタモウイイダロウソウイッテオンナノミミモトデオトコガタズネルトオンナハハジライノヒヨウジヨウヲカクシナガラコクリトウナヅクソシテオトコハカクレタミツツボノナカヘトアツクミヤクウツジヨウネツノシヤクジヨウヲハイリコマセテイク――意味不明の言葉の羅列が鼓膜ではなく、脳髄を直接振るわせるような気がし、私は驚いて耳を塞ぐのだが、音ではない、意味が伝えられていく――オトコガオンナノナカヘトハイツテイクスルトオンナハアカゴノヨウナユエツノコエヲアゲナガラクツウトトナリアワセノカイラクニカオヲユガマセフアンデナラナイトイウフウニオトコノニシガミツイタ――直接的意味の伝達によりこれまで感じたことのない快感が体内に目覚めるのを私は感じる――オトコハハテルマギワニケモノノヨウナコエヲアゲル――快感はどんどん高まっていき、ある瞬間に花火のように爆ぜた。
そして、私の意識は再び遠のいていった。
「ボク?大丈夫かい?」
目が覚めたとき、視界に入ったのはさきほどの若いカップルが心配そうな顔で私の顔を覗き込んでいるところだった。私は、道祖神の祠の前で仰向けに倒れこんでいたのだ。あたりは夕闇に包まれており、しばらくの間私は意識を失っていたことをそこで知った。「ケガとかない?」、「君、どこに住んでいるコ?心配だから車で送ってあげるよ」。男女が交互に私に訊ねた。大丈夫です、ひとりで帰れますから、と私は答えたが、男はすでに私の自転車を車のトランクに詰め込んでいるところだった。
登ってきた坂道を下る車の後部座席で、私は異変に気が付いた。怪我をしていたわけではなかったが、私の下着の一部分でぐっしょりと濡れていたのだ。はじめ小便を漏らしたのかと思ったが、どうやらそれは小便ではない――何が起きたのだろう……?その異変が新しい季節の始まりであることを理解するには、もう少し時間が必要だった。