スイーツ(笑)についての覚書
1.「マスメディアにおどらされること」を非難することは妥当であるか?
コミュニケーションによって主体と主体の、主体と社会の、社会と社会の間で接続がおこなわれているシステム上、あらゆるところにコミュニケーションの交通路となるメディアが存在していることは否定できない。我々はメディアを利用しなければコミュニケーションをすることができない。正確に言うならば、我々はコミュニケーションすることしかできないのである。コミュニケーションを放棄すること――「非コミュ」を表明すること――もまた「コミュニケーションを放棄する」というメッセージを伝えてしまう。
そうであるがゆえに、メディアを批判することには困難さがつきまとう。なぜならば、その批判もまたメディアを通しておこなわれるからである。また、「俺はマスメディアを信じない。スイーツ(笑)は馬鹿である。何故ならあのようなマスメディアを信じ込んでいるからだ」という批判は、「私は口コミを信じない。スイーツ(笑)を非難するものは馬鹿である。何故なら彼らはマスメディアを信用せず、口コミを信じ込んでいるからだ」という風に、容易に覆すことが可能である。「マスメディアを信じない人」が信じているもの――口コミ、2ちゃんねる、ブログ、mixi……etc、これらもまたメディアである。様々なメディアを順序づける基準/ものさしなど存在しない。
2.スイーツ(笑)は批判/揶揄/嘲笑なのか?
また、スイーツ(笑)の側からすれば、スイーツ(笑)を非難するものが「結局、スイーツ(という祭)にのれない冷めた人たち(楽しくスイーツが食べられない人たち)が、私たちの楽しそうな姿に嫉妬しているだけだ」という風に思われているかもしれない。そのとき、「スイーツ(笑)」と言うことで批判的な態度とろうとすることは、失敗する。「スイーツ(笑)」は嘲笑/揶揄を意味しない。それは単なるルサンチマンの表明に過ぎなくなる*1。
スイーツ(笑)が貴族的な道徳心を持つものであれば、一層「スイーツ(笑)」と言う者の、卑しい負け犬根性が顕になる。貴族的な彼女たちは「初音ミク(笑)」、「ニコ動(笑)」などと、スイーツに夢中にならないもの(つまり、他者性を持った他者)を非難することなく、スイーツを楽しむことができる。
勝負する前から決着は目に見えている。「スイーツ(笑)」は初めから惨敗しているのだ。彼女たちが「スイーツ(笑)」という文字から受け取るものは「お前ら本当は、ニットのノースリーブを剥ぎ取って、ベッドの上でフェミニン(笑)な巻き髪を揉みくちゃにしたり、下半身にはちきれんばかりに溜まった性欲を常に上目遣い(笑)で処理してもらってデトックス(笑)したいくせに、そうできない/してもらえないから『スイーツ(笑)』とか言ってるだけだろ?」と思われるだけである。
3.スイーツ(笑)は存在するのか?
個人的な視点から言えば、私はスイーツ(笑)を見たことがない。私がごく限られた生活圏のなかで生活しているせいなのかもしれないが、女性ファッション/情報誌を食い入るように眺めてそうな「ヤバい(笑)」とか言ってる女性を見たことがない。そりゃ、甘いものが好きな女性は周りにたくさんいるけど、そこに「メディアを妄信する(異常な)態度」などを感じ取ったことがない。少なくともそれらは自然なもののように思われる――なので当然「スイーツ(笑)なんてホントにいるのか?」とか尋ねたい気持ちになる。
「スイーツ(笑)」という言葉の派生語(?)で、「スイーツ脳」という言葉もはてなキーワードに登録されている。そこにはこんな解説が記載がされている。
メディアに踊らされ乗せられた自覚のない気取った女性を指すインターネットスラング。
私の視点からすれば、むしろ、このような記述を読んで「メディアに踊らされ載せられた自覚のない気取った女性」が存在している、と思ってしまう方が「スイーツ脳」の持ち主なのではないか、と思う――正確に言えば、「スイーツ(笑)脳」なのだろうが。
「スイーツ(笑)」や「スイーツ脳」という言葉で、彼女たちを揶揄しようとする人物が、果たして自覚を持っているのだろうか。もしかしたら、スイーツ(笑)なんてどこにもいないかもしれないのに……もしかしたら、「メディアに踊らされ乗せられた自覚のない気取った女性」なんか、どっこにもいなくて、誇大妄想にすぎないかもしれないのに……。
こんなことを書いていて、もしかしたら「スイーツ(笑)」なんてホンキで批難する人がどっこにも存在しなかったら、面白いんだけど(とても馬鹿らしいので、こういうメタ-メタ-メタ……な話は好きです)。