sekibang 1.0

2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

今日のアドルノ

思考は主人が勝手に静止することのできない奴隷である。

 ヘーゲルの「主人と僕(しもべ)」の喩えを思い出しても良いし、個人が先か社会が先かという古典的な論争を想起しても良い。あるいはシステムのことを考えても良いだろう。とにかく、今日は疲れたので適当です。マジメに働いていると道具的理性によって疎外されてる気分になるよ!というのでは、あまりにも酷すぎるのでもう少し言葉を補っておく。
 道具化された理性はしだいにまとまりを持ち始め、元来自然を支配するという目的で用いられてきた性格は変容していく。自然に脅かされることによって誘発される人間のパニックとは無関係に、理性は駆動するようになる。そのとき人間と理性の間にある関係はかつての単純なものではない。もはや、人間が理性を道具として使用する、という単純な主従関係は見られない。道具によって人間が規定され、自由を奪われていく――そういった相互的な主従関係、ベクトルが逆向きの屈折した支配関係に変化していく。
 ありきたりではあるが、オートメーション化された工場、特にベルトコンベヤー方式によって大量に自動車を生産することを可能にしたフォード方式が適切な具体例としてあげられるだろう。その工場は自然を支配するために動いているわけではない。経済性、あるいは資本主義といったイデオロギーに人間を従わせる機械として存在している。そこで再び、主体の自由は奪われる。自然の暴力から人間を連れ出すための理性が、新たな暴力を生むのである。

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ホルクハイマー アドルノ 徳永 恂
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 本日の一言は引き続き『啓蒙の弁証法』、48ページより。